近世能代における五町組の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 18:15 UTC 版)
「能代役七夕」の記事における「近世能代における五町組の成立」の解説
能代役七夕を催行する七夕組の制度は、江戸時代に始まる能代の住民自治のしくみであった五町組(五丁組とも表記される)の制度を下敷きとしている。 近世の能代(宝永年間まで「野代」)は、日本海に向かって流れる米代川下流左岸に発達した東西に細長い都市であり、その後の発展にともない市街地が南へと拡がっていった。能代では、藩の首邑である久保田城下町(現在の秋田市)と異なり、住民の職業・商売ごとの町割りではなく様々な生計の人々が各町に混住しており、また初期には問屋や酒屋・質屋といった一部の商売を除き株仲間による組織化も行われなかったため、商売の権利をめぐって町同士の対立が目立つことは少なく、むしろ各町で相談の上、町場に課される税や各種賦役の平準化を図る慣習が形成されていった。 このような背景のもと成立したのが五町組(五丁組)であり、古くからある有力な5つの町(清助町、後町、大町、上町、万町)を親町(親丁)として、新興でより小さな規模の町を枝町(枝丁)として付属させる仕組みが江戸時代中期に形成された。なお、五町組制度の主眼はあくまで住民負担の平準化にあったため、親町とセットにされる枝町には変遷があり、各組の規模が大きく異ならないよう幾度か組み替えられた。したがって、枝町は必ずしも親町と地理的に接している訳ではない。
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