近世甲斐国における百姓一揆と田安領
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「太枡騒動」の記事における「近世甲斐国における百姓一揆と田安領」の解説
太枡騒動は甲斐国に存在する御三卿領の田安家領において発生している。1731年(享保16年)に8代将軍徳川吉宗の次男宗武が江戸城田安門内に邸を与えられ田安家が創始され、続いて一橋家、清水家が創始され御三卿の各家が成立した。御三卿領には幕領のうち10万石が賄領地としてそれぞれ配分され、甲斐国の幕領では1746年(延享3年)に国中三郡のうち東郡地域にあたる山梨郡・八代郡から63か村3万石余りが田安家甲州領となり山梨郡一丁田中村(現・山梨市)の田安陣屋を拠点に支配が行われたほか、一橋家領、清水家領もそれぞれ成立し同様の支配を行った。その後、領地替により一橋家領と清水家領は解消され田安家領のみが存続し、騒動後も明治期まで存続している。 近世甲斐国における百姓一揆は、甲府藩時代の寛文・延宝期には国中地方の甲府藩領で藩政の疲弊による近世前期の代表的一揆である越訴型一揆が起こっており、享保年間に甲斐国は一円が幕府直轄領化され代官支配となると、1750年(寛延3年)には甲府盆地東部の東郡地域において特権化する商業資本に対して生産者農民が闘争を起こした米倉騒動が、には1836年(天保7年)には郡内地方から甲斐一国規模の騒動となった天保騒動が発生している。
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