近世甲斐国における教育と西野村とは? わかりやすく解説

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近世甲斐国における教育と西野村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/19 13:43 UTC 版)

松聲堂」の記事における「近世甲斐国における教育と西野村」の解説

甲斐国では近世初頭甲府藩成立し藩主甲府徳川家柳沢氏学問和歌嗜むなど好学大名であったが、藩士教育する藩校設置遅れた享保9年1724年)に柳沢氏転封となり甲斐一国幕府直轄領化される甲府町方甲府勤番支配在方三分代官支配となった寛政8年1796年)には甲府城郭内勤番子弟教育を行う江戸昌平坂学問所分校である徽典館甲府学問所)が設置された。 一方在方における教育私塾寺小屋中心で、学識有する在野学者文人、僧や神官浪人などが庶民教育担っていた。 郷学ごうがく)は個人経営私塾寺子屋に対して藩や代官所などが設置し村役人となる庶民教育担った教育機関で、郷校とも呼ばれる甲斐国では天保6年1835年)に設立され松聲堂のほか、文政6年1823年)に設立され八代郡市部笛吹市石和町市部)の由学館石和教諭所)、嘉永4年1851年)に設立され都留郡谷村都留市谷村)の興譲館谷村教諭所)がある。これらの郷学それぞれ石和代官所谷村代官所隣接してるが、西野村管轄する市川代官所八代郡市川大門村市川三郷町市川大門)に所在し西野村とは離れている。 松聲堂甲斐国巨摩郡西郡筋属す西野村山梨県南アルプス市西野)に所在した。西野村甲府盆地西部位置し、南流する釜無川右岸立地する西側には南北韮崎宿(韮崎市)と荊沢宿(南アルプス市荊沢)を繋ぐ駿信往還通過する一帯は「原七郷」と称される水地帯で、水田よりも畑地多かった1976年昭和51年)に刊行され山梨県教育委員会編『山梨県教育百年史 明治編』において行われた寺子屋調査によれば西郡筋の諸では28件の寺子屋私塾分布していたという。

※この「近世甲斐国における教育と西野村」の解説は、「松聲堂」の解説の一部です。
「近世甲斐国における教育と西野村」を含む「松聲堂」の記事については、「松聲堂」の概要を参照ください。

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