近世甲斐国における教育と西野村
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「松聲堂」の記事における「近世甲斐国における教育と西野村」の解説
甲斐国では近世初頭に甲府藩が成立し、藩主の甲府徳川家・柳沢氏は学問や和歌を嗜むなど好学の大名であったが、藩士を教育する藩校の設置は遅れた。 享保9年(1724年)に柳沢氏が転封となり甲斐一国が幕府直轄領化されると甲府町方は甲府勤番支配、在方は三分代官支配となった。寛政8年(1796年)には甲府城郭内に勤番士子弟の教育を行う江戸・昌平坂学問所の分校である徽典館(甲府学問所)が設置された。 一方、在方における教育は私塾や寺小屋が中心で、学識を有する在野の学者や文人、僧や神官、浪人などが庶民の教育を担っていた。 郷学(ごうがく)は個人経営の私塾や寺子屋に対して藩や代官所、村などが設置し、村役人となる庶民の教育を担った教育機関で、郷校とも呼ばれる。甲斐国では天保6年(1835年)に設立された松聲堂のほか、文政6年(1823年)に設立された八代郡市部村(笛吹市石和町市部)の由学館(石和教諭所)、嘉永4年(1851年)に設立された都留郡谷村(都留市谷村)の興譲館(谷村教諭所)がある。これらの郷学はそれぞれ石和代官所・谷村代官所に隣接してるが、西野村を管轄する市川代官所は八代郡市川大門村(市川三郷町市川大門)に所在し、西野村とは離れている。 松聲堂は甲斐国巨摩郡西郡筋に属する西野村(山梨県南アルプス市西野)に所在した。西野村は甲府盆地西部に位置し、南流する釜無川の右岸に立地する。村の西側には南北に韮崎宿(韮崎市)と荊沢宿(南アルプス市荊沢)を繋ぐ駿信往還が通過する。一帯は「原七郷」と称される乏水地帯で、水田よりも畑地が多かった。1976年(昭和51年)に刊行された山梨県教育委員会編『山梨県教育百年史 明治編』において行われた寺子屋調査によれば、西郡筋の諸村では28件の寺子屋・私塾が分布していたという。
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