近世江都著聞集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 23:15 UTC 版)
近世江都著聞集は講釈師馬場文耕がお七の死の74年後の宝暦7年(1757年)に書いたお七の伝記で、古来、天和笑委集と並んで実説(実話)とされてきた。近年に至るまで多くの作品が文耕を参考にしており、天和笑委集よりも重んじられてきた。その影響力は現代に残る丙午の迷信にまで及んでいる-#後世への影響参照。 近世江都著聞集は、その写本が収められている燕石十種第五巻では序文・目次・惑解析で4ページ、本文は11巻46ページほどの伝記集で、その46ページのなかで八百屋お七の伝記は最初の1巻目と2巻目の計8ページほどの極めて短い作品である。近世江都著聞集の惑解断と2巻目末尾で文耕は「お七を裁いた奉行中山勘解由の日記をその部下から私は見せてもらって本にしたのだ」としている。お七の恋人の名を吉三郎とする作品が多いが、自分(文耕)以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に配慮して、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのであり、また実在する吉祥寺の吉三道心という僧をお七の恋人と取り違えている人もいるがまったくの別人だと言う。 文耕は本文2巻目末尾で自信満々に「この本こそが実説(実話)だ」と述べているが、しかし、その割にはお七の事件の約40年前に亡くなっている土井大炊頭利勝を堂々と物語に登場させたりしており、後年の研究で文耕の近世江都著聞集にはほとんど信憑性がないとされている。
※この「近世江都著聞集」の解説は、「八百屋お七」の解説の一部です。
「近世江都著聞集」を含む「八百屋お七」の記事については、「八百屋お七」の概要を参照ください。
近世江都著聞集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 23:15 UTC 版)
近世江都著聞集は古来より実説として重んじられ、文芸作品にはその影響を受けたと考えられる作品が多数ある。江戸時代にも狩野文庫『恋蛍夜話』や曳尾庵 著『我衣』を代表にして石川宣続、小山田与清、山崎美成、乾坤坊良斎、加納徳孝、純真らの作家が近世江都著聞集を下地にしたと思われる作品を書き、近代でも水谷不倒、三田村鳶魚、昭和に入っても藤口透吾 や多岐川恭 などが近世江都著聞集を下地にして作品を作っている。 成立がお七の死後74年たった後であり、既に西鶴や海音など多くの作品が世に出ており、文耕の近世江都著聞集はそれらの作品からさまざまに取捨選択し創作を加えて面白い作品に作り上げたと考えられている。ただし、面白いものの前述のように現代では近世江都著聞集のストーリーには信憑性がまったくないものとされている。 (あらすじ)元は加賀前田家の足軽だった八百屋太郎兵衛の娘お七は類の無い美人であった。天和元年丸山本妙寺から出火した火事で八百屋太郎兵衛一家も焼け出され、小石川円乗寺 に避難する。円乗寺には継母との間柄が悪く実家にいられない旗本の次男で美男の山田左兵衛が滞在していた。お七と山田左兵衛は互いが気になり、人目を忍びつつも深い仲になっていた。焼け跡に新宅が建ち一家は寺を引き払うが、八百屋に出入りしていたあぶれ者で素性の悪い吉三郎というものがお七の気持ちに気が付いて、自分が博打に使う金銀を要求する代わりに二人の間の手紙の仲立ちをしていた。やがて吉三郎に渡す金銀に尽きたお七に対して吉三郎は「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかす(吉三郎はお七に火事をおこさせて自分は火事場泥棒をする気でいる)。お七は火事が起きないかと願うが火事は起こらず、ついに自ら放火する気になったお七に吉三郎は「焼けるのが自分の家だけなら罪にならん、恋の悪事は仏も許すだろう」と言い放火の仕方を教える。風の強い日にお七は自分の家に火をつけ、八百屋太郎兵衛夫妻は驚きお七を連れて逃げ出す。吉三郎はこの隙にと泥棒を働くが、駆けつけてきた火付盗賊改役の中山勘解由に捕縛された。拷問された吉三郎は火を付けたのは自分では無く八百屋太郎兵衛の娘お七だという。中山勘解由がお七を召しだして尋ねるとたしかに自分が火をつけたと自白するので牢に入れ、火あぶりにしようと老中に伺いをたてる。そのときに幕府の賢人土井大炊頭利勝 が「悲しきかな。罪人が多いのは政治が悪いからだとも言う。放火は大罪で火あぶりにするべきだが、か弱い娘がこのような事をする国だと朝鮮・明国に知れると日本は恐ろしい国だと笑われるだろう。」と言い、中山に「15歳以下ならば罪を一段引き下げて遠島(島流し)にできるではないか。もう一度調べよ」と命ずる。土井大炊頭の意を汲んで、中山はお七が14歳だということにして牢を出し部下に預ける。しかし、このことを聞いた吉三郎は自分だけが刑されるのをねたみ、中山を糾弾する。中山は怒り吉三郎と口論するが、吉三郎は谷中感応寺の額にお七が16歳の証拠があると言い、実際に感応寺の額を取り寄せたら吉三郎の言うとおりだったので中山も仕方なく天和2年2月 吉三郎と一緒にお七を火あぶりにする。
※この「近世江都著聞集」の解説は、「八百屋お七」の解説の一部です。
「近世江都著聞集」を含む「八百屋お七」の記事については、「八百屋お七」の概要を参照ください。
- 近世江都著聞集のページへのリンク