近世法
読み方:キンセイホウ(kinseihou)
安土桃山時代から江戸時代の法。
近世法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 03:49 UTC 版)
徳川幕府が天下を平定した後も、一般的にはその法制は慣習法主体とされている。確かに律令のような大規模な法典が制定されなかったのは事実である。だが、それは「古法」・「先例」・「祖法」と称される幕府や諸藩においてその創成期に法慣習あるいは成文法として確立したものに対してであり、それが十分でない分野においては大半の場合には成文法が制定されて、徳川時代以前に存在した慣習法は打破されていった。幕府においては、徳川吉宗の時代にこれまでの制定法や慣習法を集めて公事方御定書が編纂されている。ただし、こうした法令に関する知識は幕府内部の秘密とされ、公事方御定書は町奉行など限られた役人しか見ることが許されず、武家故実書の刊行においても幕府法令に触れたことを理由として処分を受けた例がある(『青標紙』)。 だが、その一方で武家社会の根源である武力と儒教を重んじる徳川幕府や諸藩にとっては「法の支配」という観念は希薄であり、また幕府の法令は全国的に適用されたとはいえ、各藩には独自に法令制定権(自分仕置権)があり、幕府の法に根本的に反しない限りは独自の法(藩法)を定める事が出来た(特に外様大名の大藩にその傾向が強かった)。また、幕府もその勢力基盤を維持するための法令以外のものはあくまでも天領や旗本領を対象として法令を適用する事の方が多かった。 また、儒教の祖先崇拝(父祖への「孝」)やと始祖(藩祖)英雄視論による「古法(祖法)墨守」が法の原則(主君から見れば「父祖への孝行」、家臣の立場から見れば「主君への忠義」)であると考えられ、その改廃は直ちにお家騒動(保守派vs改革派)や百姓一揆(新法への不安や負担増によるもの)を招来する事が多かった(特に貝原益軒に至っては「新法たつれば必ず其家亡ぶ」と断言している)。 こうした近世期の法観念を表す法諺に「非理法権天」がある。
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