近世甲斐国における東郡地域の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 08:00 UTC 版)
「太枡騒動」の記事における「近世甲斐国における東郡地域の情勢」の解説
近世甲斐国では金納税制である大小切税法と甲州金、甲州枡の甲州三法が適用されていたことを特徴としている。甲府盆地東部の国中三郡において、江戸中期以降には米麦栽培のほか養蚕や煙草栽培など商品作物生産を組み合わせた生業形態が確立した。特に東郡地域においては養蚕が盛んで、商品経済が浸透している地域であった。 1776年(安永5年)には田安家領を含む国中3郡で結集し、一国規模の甲州枡存続運動が発生している。この時は幕府側の譲歩を引き出しており、寛政元年には再び国中三郡で川除郡中割金制度の見直し運動を起こしている。これらの運動に参加した百姓のなかには、太枡騒動の首謀者となった山梨郡綿塚村(甲州市勝沼町綿塚)の長百姓・重右衛門が含まれていることが指摘されている。 その後も田安家領で甲州三法は維持されていたが、明和年間には地球的な異常気象の影響で日本各地でも干魃や疫病が流行し、列島規模で百姓一揆が多発していた。甲斐国でも天候不順による不作や、東郡地域では笛吹川の水害などの自然災害にも見舞われていた。これらの要因により田安家領でも財政が悪化し、租率の低下が指摘されており、課税強化が断交された。
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