存続運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 16:28 UTC 版)
2001年(平成13年)12月、貨物営業の廃止が決まり、存続に危機感を持った沿線自治体が中心となって、茨城県と沿線自治体(石岡市、玉里村(現小美玉市)、小川町(現小美玉市)、玉造町(現行方市)、鉾田町(現鉾田市))の市町村長と、議会議長で組織する鹿島鉄道対策協議会が発足した。2002年(平成14年)9月、対策協議会は、鹿島鉄道の経営改善5カ年計画を了承し、5年間で総額2億円の公的支援を正式決定した。 また、民間でも以下のような支援団体が結成された。 公的支援の正式決定前の2002年(平成14年)7月、小川高校の生徒の呼びかけで、沿線にある中学校や高等学校(全8校)の生徒が「かしてつ応援団」を結成し、署名活動を展開した。同応援団は、公的支援が正式決定された後も、署名活動や募金活動、さまざまな存続運動を盛んに展開し、2003年(平成15年)10月、「地方鉄道の活性化に貢献した」として、日本鉄道賞の表彰選考委員会特別賞を受賞した。同応援団には最終的に16校が参加した。鹿島鉄道線の存続運動が盛り上がったのは、同応援団の存在が大きかった。 2005年(平成17年)11月、地元のNPO法人と沿線住民有志が「かしてつブルーバンドプロジェクト」を立ち上げた。霞ヶ浦の「青」をイメージしたブルーバンドを1つ100円で、石岡市内や鉾田市内、小美玉市内のカスミ3店舗や駅舎で販売した。売り上げは、2006年(平成18年)8月の「かしてつ祭」など鹿島鉄道を盛り上げるためのイベント運営資金などに役立てられた。 2006年(平成18年)8月、「かしてつブルーバンドプロジェクト」などの支援団体がまとまって、住民団体「鹿島鉄道再生存続ネットワーク」が発足した。 しかし状況は好転せず、ついに2006年(平成18年)3月30日に、鹿島鉄道が国土交通省に廃止日を2007年(平成19年)4月1日とする廃止届を提出。これにより鹿島鉄道対策協議会は、2006年(平成18年)11月中旬をめどに支援策をまとめた。また第三セクターでの存続を模索しつつ、代替バスへの転換も検討する方針が対策協議会で確認された。そして協議会は、2006年(平成18年)11月19日に第3回の会合を開き、協議会および沿線の市の単独での財政支援を今年度限りで打ち切ることを決定、これにより、11月27日から12月11日の間に、輸送人員や公的支援額などを公表した上で新事業者を公募し、応募がない場合は、代替バスを運行することとし、準備が進められた。 公募には、市民団体の鹿島鉄道再生存続ネットワークが「新しく株式会社霞ヶ浦市民鉄道(仮称)を設立した上、運行を岡山電気軌道に委託する形」で、また、旅行代理店のトラベルプランニングオフィスが「鉄道事業に新規参入する形」で応募した。この2事業者は、12月17日に鹿島鉄道対策協議会へのプレゼンテーションを行った。しかし12月24日、協議会は審査の結果、「鉄道事業の免許を持っていない」「2007年度から5年間予定している支援額6億5000万円を超える負担が必要になる」「鹿島鉄道から施設の無償譲渡を受けるのが難しい」などの理由で、2事業者の案は不採用とし、同線の廃止を決定した。廃止後は、関鉄グリーンバスへ代替バスの運行が行われている。 上記、公募から廃線に至る経緯の出典は以下の通り。 「鹿島鉄道存続問題 事業者公募に2団体」東京新聞 2006年12月14日 「鹿島鉄道廃線決定」東京新聞 2006年12月25日 「鹿島鉄道、来年3月の廃線決定」 朝日新聞 2006年12月25日
※この「存続運動」の解説は、「鹿島鉄道」の解説の一部です。
「存続運動」を含む「鹿島鉄道」の記事については、「鹿島鉄道」の概要を参照ください。
- 存続運動のページへのリンク