吉原百人斬伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
享保年間(1716–1736年)の頃の佐野次郎左衛門という殺人犯も、村正伝説に関わる一人である。この男が吉原の八橋という遊女を殺した事件が、後世に妖刀「籠釣瓶」を使った吉原百人斬りと脚色されるようになった。三田村鳶魚は、この吉原百人斬り事件を考証し、宝暦年間に馬場文耕が著した『近世江都著聞集』に、このときの刀は国光作であったとしている。 初期は、寛政9年(1797年)3月 に初演された初代並木五瓶作の歌舞伎狂言『青楼詞合鏡(さとことばあわせかがみ)』があり、当時としては新しい趣向を色々と凝らしたために盛況で、妖刀などは出ないコメディータッチであり、途中紆余曲折はあるが誰も死なない大団円で終わる。次に、文化12年(1815年)、四世鶴屋南北の歌舞伎狂言『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)』で悲劇として取り上げられたが、この時はまだ殺人数も少なく、得物も村正ではなく二字国俊だった。 ところが、慶応3年(1867年)、浮世絵師落合芳幾は『英名二十八衆句』で佐野次郎左衛門を題材にし、鬼気迫る無惨絵に添えて「一刀伊勢村正其の身に祟る殺人刀」「首の血煙水も溜ぬ籠釣瓶百人切」等と記した さらに、明治21年(1888年)には、三代目河竹新七によって『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』が作られたが、これにも作中に「籠釣瓶」の異名を持つ妖刀村正が登場、魔力を持つ妖刀村正での虐殺、そこに至るまでの醜い田舎者の悲哀などが共感を生み、初代市川左團次らの名演技もあって明治期世話物の代表作と言われるほどの絶賛を受けた。
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