近世西洋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 06:52 UTC 版)
16世紀に鋳造砲が実用化されて本格的な艦砲の配備が始まると、移乗攻撃の重要性は次第に低下した。ただ、大砲の性能が低いうちは移乗攻撃も重要な戦法であった。西欧の海軍で移乗攻撃の専門部隊である海兵隊が現れたのも16世紀で、1537年に設立のスペイン海兵隊(英語版、スペイン語版)が嚆矢とされる。 ガレー軍船は近世に入っても従来の移乗攻撃を中心とした接近戦を続けていた。地中海のガレー軍船では船首に数門の小口径砲が装備されたが、装填速度が遅く実質的に1発だけしか撃てないため、古典的な横陣を組んで敵艦に接近した後、兵士が敵船に移乗する直前に発砲して敵の士気をくじく補助的な兵器とみなされた。ヴェネツィア共和国海軍は、大砲50-70門を舷側に搭載したガレアス船を開発したが、これもあくまで人員殺傷を目的とした軽砲であった。ガレー船海戦の頂点となった1571年のレパントの海戦でも移乗攻撃が両軍の主力戦法であり、キリスト教同盟艦隊は総人員8万4千人のうち2万人、オスマン帝国艦隊は総人員8万8千人のうち1万6千人が白兵戦用に乗船した陸兵であった。キリスト教同盟艦隊は「返り血を浴びる距離」まで発砲を禁じて衝角と移乗攻撃による近接戦闘を行い、オスマン艦隊も司令官のメジンザード・アリ・パシャ(トルコ語版)自ら旗艦で敵幹部の乗艦を狙って移乗攻撃を仕掛けた。 一方、大西洋では大口径の艦砲を砲列甲板に装備したガレオン船が主力軍船となり、200m以上離れての砲撃戦も可能となった。移乗攻撃も盛んではあったが、砲撃戦で大勢が決した後、索具やマストを破壊されて運動性を失った敵艦にとどめを刺す形で行われるようになった。ただし、奇襲戦術としていきなり移乗攻撃が用いられることもあった。最も早くに移乗攻撃から砲撃戦に重点を移したのはイギリス海軍で、1588年のアルマダの海戦では移乗攻撃を原則として禁止した。相手方のスペイン艦隊は敵艦を鉤綱で拘束しての移乗攻撃を意図し、海兵隊などの戦闘員を多く乗せ、人員殺傷用の小口径砲多数を船首楼・船尾楼に積んでいたが、イギリス艦隊のアウトレンジ戦法によって移乗攻撃を封じられてしまった。もっとも、依然として大砲の威力は限定的で、イギリス艦隊が多用した長射程のカルバリン砲によって致命傷を受けたスペイン艦はわずかであった。イギリス側が移乗攻撃を避けた結果、戦闘中に拿捕されたスペイン艦も比較的に少数にとどまった。 17世紀から18世紀には大砲のさらなる発展と戦列艦の完成により、移乗攻撃の地位は低下の一途をたどった。英蘭戦争では両軍艦隊とも戦列艦による砲撃戦を展開し、戦術面でも舷側砲戦に適した陣形である単縦陣が定着した。
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