ムハンマド・アリー朝の崩壊
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「ムハンマド・アリー朝」の記事における「ムハンマド・アリー朝の崩壊」の解説
大戦後の1948年に起こった第一次中東戦争での惨敗は、王制に対する支持を決定的に失わせるとともに、これまで改革派を主導してきたエジプト国民主義にかわってアラブ民族主義やイスラム主義に基づいて新しい国家体制を求める動きを活性化させた。 軍隊の内部でも、ガマール・アブドゥン=ナーセルを中心とする青年将校たちが戦争の敗因を王制に基づく政治の混乱と腐敗とみなし、体制転覆をねらう秘密結社自由将校団を結成した。 エジプト国内の急進的な動きは1952年には反外国人暴動に発展したが、王制はこれを収拾する能力を既に失っていた。この混乱の中で7月23日、自由将校団はクーデターを起こし、無血革命に成功した。 翌1953年6月18日、革命政権はムハンマド・アリー朝の廃絶を宣言し、エジプトは共和制に移行した。
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