ムハンマド・アリー朝の確立
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「オスマン帝国領エジプト」の記事における「ムハンマド・アリー朝の確立」の解説
ムハンマド・アリーは政権を掌握した後、その指導力をもって各種の改革を行った。サウード王国への遠征(1811年-1818年)や東スーダンへの遠征(1820年-1823年)を通じて、現在のエジプト、スーダン、南スーダン、アラビア半島の主要部に支配を広げ、エチオピアとソマリアの一部にも一時的ながら手を伸ばした。一連の遠征でムハンマド・アリーが用いた軍はアルバニア人部隊やマムルーク、傭兵などで構成される旧来からの形式の軍隊であったが、既にその戦闘能力の問題は明らかであった上、ムハンマド・アリーの勢力拡大を警戒したオスマン帝国が傭兵やマムルークのエジプト流入を妨害したため兵員の補充が困難となっていた。このため、ファッラーヒーンと呼ばれるエジプト農民からの徴兵が試みられ、フランス陸軍に範をとった軍制改革が実施された。また、海軍工廠が建造され軍艦の建造が始まると共に、ヨーロッパからも船舶を購入して海軍が充足された。この新式軍は1793年にオスマン帝国のスルターン・セリム3世(在位:1789年-1807年)が創設した洋式軍隊に倣い、「ニザーム・ジェディード(新制度)」と呼ばれた。内政面でも、灌漑水路網の整備とナイル川の人工灌漑システムへの以降、農地の国有化と綿花を始めとした商品作物への専売制の施行、交通路の整備、軍需産業と繊維産業を中核とした工業の発展、税制の改革、学校教育の普及などが試みられ、各種の問題に直面しながらも大きな成果を挙げた。当時オスマン帝国領、特にバルカン半島では政治的な「民族/国民」の形成過程が進展しつつあったが、エジプトにおいてもムハンマド・アリーによって着手された一連の改革によって、あるいはそれをきっかけとしてエジプト「国民」意識、祖国(ワタン)の観念が発達していくこととなる。 ムハンマド・アリーの改革によるエジプトの「国力」増強は目覚ましく、軍事面においては本国たるオスマン帝国のそれを凌駕した。1821年にギリシャ独立戦争が勃発しオスマン帝国領のモレア(ギリシャ)でもギリシャ人たちが蜂起すると、オスマン帝国はこの鎮圧に失敗した。スルターン・マフムト2世(在位:1808年-1839年)はやむなくシリアの領有と引き換えにエジプト総督ムハンマド・アリーに出兵を要請した。ムハンマド・アリーはこれに応じ、派遣されたエジプト軍は、ムハンマド・アリーの息子イブラーヒーム・パシャの指揮の下、モレアで多大な戦果を挙げた。しかし、イギリス・フランス・ロシアが介入によって状況は変化し、ナヴァリノの海戦での敗北によってエジプトは海軍の大半を喪失した。モレアに遠征した部隊も半数を超える損失を出し、ギリシャの独立阻止は失敗した。ムハンマド・アリーは出兵の報酬としてクレタ島を得たが、損失に見合う報酬とは言えなかった。そのため、敗戦とは関係なくシリアの引き渡しを要求し、マフムト2世がこれを拒否すると実力でシリアを切り取りにかかった。こうして戦われた第一次エジプト・トルコ戦争でエジプト軍はオスマン帝国軍を大いに破り、ムハンマド・アリーは1833年5月14日のキュタヒヤの和約でシリアを掌中に収めた。 このようなムハンマド・アリーの成功の中で、「オスマン帝国領」エジプトの法的地位は複雑であった。ムハンマド・アリーは形式としてはあくまでもオスマン帝国が任命したエジプト総督(ワーリー)であり、毎年行われる叙任(テヴリーイェト、tevlîyet)によってその地位が更新された。オスマン帝国はムハンマド・アリーを(そして後には彼の後継者たちを)可能な限り他州の総督と同列に扱おうとした。そしてこの問題にはただオスマン帝国とエジプトの間だけではなく、ヨーロッパ列強諸国の利害が複雑に関係していた。特に重要な利害関係を持っていたのはイギリスであった。イギリスはオスマン帝国の弱体化がロシアを利することになり、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡に対するロシアの影響力が拡大することを警戒していた。またエジプトが植民地インドとの交易の要であったことから、エジプトに統制不可能な強力な政権が誕生することを望まなかった。さらにムハンマド・アリーが敷く専売制を、イギリスの潜在的な市場を失わせるものと見なしていた。そして1838年、ムハンマド・アリー政権に打撃を与える意図をもってオスマン帝国との間に輸出税の付加や専売制の禁止などの条項を含んだ通商条約を結んだ。エジプトが「オスマン帝国領」である限り、法的には条約の効力がエジプトにも及ぶこととなるため、条約の内容を知ったムハンマド・アリーはすぐにその意図を理解し、同年にエジプト独立の意図をヨーロッパ各国に通達したが、イギリス外相パーマストンはそれよりも前にエジプトに対するオスマン帝国の主権保護を目指して各国に根回しを行っており、ムハンマド・アリーは独立の撤回に追い込まれた。 そして1839年4月、オスマン帝国のスルターン・マフムト2世が実質的支配権の回復を目指してエジプト支配下のシリアへ侵攻した(第二次エジプト・トルコ戦争)。戦争はエジプト軍の圧倒的優勢のうちに進み、その最中にマフムト2世が死去して若年のアブデュルメジト1世(在位:1839年-1861年)が即位した。そして1839年7月、オスマン帝国の海軍大提督アフメト・フェウズィ・パシャが指揮下の全艦隊を率いてエジプトに降伏するに至り、オスマン帝国は軍事力の大半を喪失し滅亡の瀬戸際に立たされることになった。ムハンマド・アリーがオスマン帝国にエジプト、シリア、アダナの世襲支配権を要求し、オスマン帝国側がこれを承認する様子を見せ始めると、政治地図の激変を懸念したヨーロッパ列強諸国(イギリス、フランス、ロシア、オーストリア、プロイセン)はエジプトの地位について列強諸国との協議なしに決定を行わないことをオスマン帝国に要求した。これを主導したイギリスは、親エジプト的なフランスを孤立させ、他の3国と共に1840年7月にエジプトに対してエジプト本国とスーダンを除く全征服地の放棄とオスマン帝国から降伏した艦隊の引き渡しを要求した(ロンドン条約)。ムハンマド・アリーはフランスとの提携に希望を繋いだが、同年9月にベイルートにイギリス、オーストリア、オスマン帝国の連合軍が上陸し、11月にはアレクサンドリアにイギリス艦隊が到達した。ムハンマド・アリーはここに至って抵抗を諦め、平時の兵員数を18,000人とすること、主要生産物の専売制の廃止、関税自主権の喪失、治外法権の適用、海軍人事におけるオスマン帝国の事前承認などの条件を飲んで講和を結んだ。その代わり、エジプトおよびスーダンにおける総督職の世襲権が認められることになった。こうして第一次世界大戦まで続く「オスマン帝国宗主権下における」ムハンマド・アリーの子孫によるエジプト支配体制(ムハンマド・アリー朝)が法的な意味においても確立された。
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