ムハンマド・アリー朝の確立とは? わかりやすく解説

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ムハンマド・アリー朝の確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:45 UTC 版)

オスマン帝国領エジプト」の記事における「ムハンマド・アリー朝の確立」の解説

ムハンマド・アリー政権掌握した後、その指導力をもって各種改革行ったサウード王国への遠征1811年-1818年)や東スーダンへの遠征1820年-1823年)を通じて現在のエジプトスーダン南スーダンアラビア半島主要部支配広げエチオピアソマリア一部にも一時的ながら手を伸ばした一連の遠征ムハンマド・アリー用いた軍はアルバニア人部隊マムルーク傭兵などで構成される旧来からの形式軍隊であったが、既にその戦闘能力問題は明らかであった上、ムハンマド・アリー勢力拡大警戒したオスマン帝国傭兵マムルークエジプト流入妨害したため兵員補充が困難となっていた。このためファッラーヒーン呼ばれるエジプト農民からの徴兵試みられフランス陸軍に範をとった軍制改革実施された。また、海軍工廠建造され軍艦建造が始まると共にヨーロッパからも船舶購入して海軍充足された。この新式軍は1793年オスマン帝国のスルターン・セリム3世在位1789年-1807年)が創設した洋式軍隊倣い、「ニザーム・ジェディード新制度)」と呼ばれた内政面でも、灌漑水路網の整備ナイル川人工灌漑システムへの以降農地の国有化綿花始めとした商品作物への専売制施行交通路整備軍需産業繊維産業中核とした工業の発展税制改革学校教育普及などが試みられ各種問題直面しながらも大きな成果挙げた当時オスマン帝国領、特にバルカン半島では政治的な民族/国民」の形成過程進展しつつあったが、エジプトにおいてムハンマド・アリーによって着手され一連の改革によって、あるいはそれをきっかけとしてエジプト国民意識祖国(ワタン)の観念発達していくこととなる。 ムハンマド・アリー改革によるエジプトの「国力増強目覚ましく軍事面においては本国たるオスマン帝国のそれを凌駕した1821年ギリシャ独立戦争勃発しオスマン帝国領モレアギリシャ)でもギリシャ人たちが蜂起すると、オスマン帝国はこの鎮圧失敗した。スルターン・マフムト2世在位1808年-1839年)はやむなくシリア領有引き換えエジプト総督ムハンマド・アリー出兵要請したムハンマド・アリーはこれに応じ派遣されエジプト軍は、ムハンマド・アリー息子イブラーヒーム・パシャ指揮の下、モレア多大な戦果挙げた。しかし、イギリス・フランス・ロシアが介入によって状況変化しナヴァリノの海戦での敗北によってエジプト海軍大半喪失したモレア遠征し部隊半数超える損失出しギリシャの独立阻止失敗したムハンマド・アリー出兵報酬としてクレタ島得たが、損失見合う報酬とは言えなかった。そのため、敗戦とは関係なくシリア引き渡し要求しマフムト2世がこれを拒否する実力シリア切り取りかかった。こうして戦われ第一次エジプト・トルコ戦争エジプト軍オスマン帝国軍大い破りムハンマド・アリー1833年5月14日キュタヒヤ和約シリア掌中収めたこのようなムハンマド・アリー成功の中で、「オスマン帝国領エジプトの法地位は複雑であったムハンマド・アリー形式としてはあくまでもオスマン帝国任命したエジプト総督ワーリー)であり、毎年行われる叙任(テヴリーイェト、tevlîyet)によってその地位更新された。オスマン帝国ムハンマド・アリーを(そして後には彼の後継者たちを)可能な限り他州総督同列扱おうとした。そしてこの問題にはただオスマン帝国エジプトの間だけではなくヨーロッパ列強諸国利害複雑に関係していた。特に重要な利害関係持っていたのはイギリスであったイギリスオスマン帝国弱体化ロシア利することになり、ボスポラス海峡ダーダネルス海峡対すロシア影響力拡大することを警戒していた。またエジプト植民地インドとの交易の要であったことから、エジプト統制不可能な強力な政権誕生することを望まなかった。さらにムハンマド・アリーが敷く専売制を、イギリス潜在的な市場失わせるものと見なしていた。そして1838年ムハンマド・アリー政権打撃与え意図をもってオスマン帝国との間に輸出税付加専売制禁止などの条項含んだ通商条約結んだエジプトが「オスマン帝国領」である限り法的に条約効力エジプトにも及ぶこととなるため、条約の内容知ったムハンマド・アリーはすぐにその意図理解し同年エジプト独立意図ヨーロッパ各国通達したが、イギリス外相パーマストンそれよりも前にエジプト対すオスマン帝国主権保護目指し各国根回し行っており、ムハンマド・アリー独立撤回追い込まれた。 そして1839年4月オスマン帝国のスルターン・マフムト2世実質的支配権回復目指しエジプト支配下のシリア侵攻した第二次エジプト・トルコ戦争)。戦争エジプト軍圧倒的優勢のうちに進み、その最中マフムト2世死去して若年アブデュルメジト1世在位1839年-1861年)が即位した。そして1839年7月オスマン帝国海軍大提督アフメト・フェウズィ・パシャが指揮下の全艦隊率いてエジプト降伏する至りオスマン帝国軍事力大半喪失し滅亡瀬戸際に立たされることになったムハンマド・アリーオスマン帝国エジプトシリアアダナ世襲支配権要求しオスマン帝国側がこれを承認する様子見せ始めると、政治地図激変懸念したヨーロッパ列強諸国イギリスフランスロシアオーストリアプロイセン)はエジプト地位について列強諸国との協議なしに決定行わないことをオスマン帝国要求した。これを主導したイギリスは、親エジプト的なフランス孤立させ、他の3国と共に1840年7月エジプトに対してエジプト本国スーダンを除く全征服地の放棄オスマン帝国から降伏した艦隊引き渡し要求したロンドン条約)。ムハンマド・アリーフランスとの提携希望繋いだが、同年9月ベイルートイギリスオーストリアオスマン帝国連合軍上陸し11月にはアレクサンドリアイギリス艦隊到達したムハンマド・アリーはここに至って抵抗諦め平時兵員数18,000人とすること、主要生産物専売制廃止関税自主権喪失治外法権適用海軍人事におけるオスマン帝国事前承認などの条件飲んで講和結んだその代わりエジプトおよびスーダンにおける総督職の世襲認められることになった。こうして第一次世界大戦まで続く「オスマン帝国宗主権下における」ムハンマド・アリーの子孫によるエジプト支配体制ムハンマド・アリー朝)が法的な意味においても確立された。

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