オーストリア=ハンガリー帝国
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オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリーていこく、ドイツ語: Österreichisch-Ungarische Monarchie または Kaiserliche und königliche Monarchie、ハンガリー語: Osztrák-Magyar Monarchia)は、かつて中央ヨーロッパに存在した多民族国家である。ハプスブルク帝国の一つで、ハプスブルク家領の最後の形態である。
- 1 オーストリア=ハンガリー帝国とは
- 2 オーストリア=ハンガリー帝国の概要
オーストリア・ハンガリー二重帝国
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「オーストリアの歴史」の記事における「オーストリア・ハンガリー二重帝国」の解説
詳細はオーストリア・ハンガリー二重帝国を参照 1867年3月15日、ハンガリー議会がオーストリアとの合体を定めた「アウスグライヒ(和協)法案」を可決。オーストリア・ハンガリー二重帝国体制の道筋がついた。これは、フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア皇帝とハンガリー王を兼ね、両国は外交、軍事、財政は共通にするものの、憲法と議会、政府は独自のものを置く同君連合体制である。ハンガリー議会の「和協法」可決から3か月後の6月8日にはフランツ・ヨーゼフ帝がハンガリー王に戴冠し、「オーストリア・ハンガリー二重帝国」が名実ともに成立した。この体制によって、ドイツから疎外されたオーストリアは中央ヨーロッパの大国の地位を維持することに成功、帝都ウィーンには世紀末美術の花が咲くなど繁栄を得た。一方ハンガリーは首都ブダペストの近代化などに成功し、空前の繁栄を謳歌する。 しかし、この体制はドイツ系とマジャル人の多数派が少数のチェコ人やポーランド人など他のスラブ系諸民族を抑圧することで維持される性格を持つゆえに、成立直後から民族主義を叫ぶ諸民族の揺さぶりを受けることになった。この結果、フランツ・ヨーゼフ1世は、ドイツ帝国とよりを戻し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の掲げた「汎ゲルマン主義」に同調していく事となる。
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