オーストリア・ハプスブルク帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「オーストリア・ハプスブルク帝国」の解説
神聖ローマ皇帝カール6世(在位:1711年 - 1740年)のウィーンではユダヤ人の人口増加を防ぐために、1726年の法で、正式に結婚できるのは長男だけとされた。この結婚制限法は、ボヘミア、モラビア、プロイセン、パラティナ、アルザスでも適用された。この結果、多くのユダヤ人若者がポーランドやハンガリーに流出した。 印刷術の発達によって、18世紀初頭には反ユダヤ的著作は毎年のように夥しい量が出版されるようになった。 ハイデルベルク大学の東洋学・ヘブライ学者アイゼンメンガーは1700年に『暴かれたユダヤ教』を著したが、オーストリア宮廷ユダヤ人のザームエル・オッペンハイマーによって発禁処分となり、アイゼンメンガーは無念のうちに4年後に死んだ。しかし、アイゼンメンガー死後まもなくして、プロイセン王フリードリヒ1世の後ろ盾を得て、遺族が再刊し、以後、ドイツの反ユダヤ主義の枕頭の書となった。 オーストリア継承戦争でユダヤ人がプロイセンのスパイとして活動したということから、1744年、オーストリア大公マリア・テレジアがボヘミアでユダヤ追放令を出した。しかし、ヴォルフ・ヴェルトハイマーがユダヤ人の国際連帯活動を行い、フランクフルト、アムステルダム、ロンドン、ヴェネツィアのユダヤ人居住地は警戒態勢を敷き、ローマのゲットーには教皇に働きかけるよう指示があり、宮廷ユダヤ人の国際ネットワークの力によって、イギリスとオランダがマリアテレジアへ抗議して、マリアテレジアは追放令を解除した。このウィーンでのユダヤ追放令が国家による大規模な追放政策としては最後のものとなった。
※この「オーストリア・ハプスブルク帝国」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「オーストリア・ハプスブルク帝国」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- オーストリア・ハプスブルク帝国のページへのリンク