オーストリア辺境伯領
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オーストリア辺境伯領(オーストリアへんきょうはくりょう、ドイツ語: Markgrafschaft Österreich)は、エンス川とウィーンの森の間、現在のオーバーエステライヒ州とニーダーエスタライヒ州に当たる地域に存在した辺境伯領。970年に建国され、1156年にオーストリア公国となるまで存在した[1][2]。
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オーストリア辺境伯領
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「オーストリアの歴史」の記事における「オーストリア辺境伯領」の解説
オストマルク東方辺境伯家が衰退すると、976年、バンベルクを支配したバーベンベルク家(フランスのロベール家の支流)のリウトポルトが、オストマルク東方辺境伯を改めてオーストリア辺境伯となった。996年、神聖ローマ皇帝オットー3世の文書で、「オスタルリキ(Ostarrîchi)」という表現が用いられている。これが「エスターライヒ(Österreich)」という語につながったと考えられる。バーベンベルク家のもとで、辺境伯領の版図はライタ川付近まで伸張したが、領内にはバイエルン司教などの所領が広がっており、伯による一元的な支配を打ちたてることは難しかった。 ローマ教皇とザーリアー朝の皇帝による叙任権闘争は、オーストリア辺境伯領にも影響を与えた。「カノッサの屈辱」など教皇と皇帝の対立が顕在化してくるなかで、辺境伯レオポルト2世は、1078年に教皇を支持する姿勢をとった。そのため、皇帝ハインリヒ4世はオーストリア支配をボヘミアのヴラチスラフ2世に認め、ボヘミアと武力衝突が起こった。しかし、結局バーベンベルク家はほぼ版図を維持し、次代のレオポルト3世は皇帝ハインリヒ5世と姻戚関係を結び、家門の権威を高めることに成功した。一方でカトリック教会との結びつきも強め、ハイリゲンクロイツに修道院を設けた。
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