オーストリア辺境伯領とは? わかりやすく解説

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オーストリア辺境伯領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/06 19:53 UTC 版)

オーストリア辺境伯領(オーストリアへんきょうはくりょう、ドイツ語: Markgrafschaft Österreich)は、エンス川ウィーンの森の間、現在のオーバーエステライヒ州ニーダーエスタライヒ州に当たる地域に存在した辺境伯領970年に建国され、1156年オーストリア公国となるまで存在した[1][2]




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オーストリア辺境伯領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 05:22 UTC 版)

オーストリアの歴史」の記事における「オーストリア辺境伯領」の解説

オストマルク東方辺境伯家が衰退すると、976年バンベルク支配したバーベンベルク家フランスロベール家支流)のリウトポルトが、オストマルク東方辺境伯改めオーストリア辺境伯となった996年神聖ローマ皇帝オットー3世文書で、「オスタルリキ(Ostarrîchi)」という表現用いられている。これが「エスターライヒÖsterreich)」という語につながった考えられるバーベンベルク家のもとで、辺境伯領版図ライタ川付近まで伸張したが、領内にはバイエルン司教などの所領広がっており、伯による一元的支配打ちたてることは難しかったローマ教皇ザーリアー朝皇帝による叙任権闘争は、オーストリア辺境伯領にも影響与えた。「カノッサの屈辱」など教皇と皇帝対立顕在化してくるなかで、辺境伯レオポルト2世は、1078年教皇支持する姿勢をとった。そのため、皇帝ハインリヒ4世オーストリア支配ボヘミアヴラチスラフ2世認めボヘミア武力衝突起こった。しかし、結局バーベンベルク家はほぼ版図維持し次代レオポルト3世皇帝ハインリヒ5世姻戚関係を結び、家門権威高めることに成功した一方でカトリック教会との結びつき強めハイリゲンクロイツ修道院設けた

※この「オーストリア辺境伯領」の解説は、「オーストリアの歴史」の解説の一部です。
「オーストリア辺境伯領」を含む「オーストリアの歴史」の記事については、「オーストリアの歴史」の概要を参照ください。

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