オーストリア軍降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:52 UTC 版)
「ヴィットリオ・ヴェネトの戦い」の記事における「オーストリア軍降伏」の解説
「ヴィラ・ジュスティ休戦協定」も参照 11月3日、戦線崩壊に陥ったオーストリア軍司令部はタリアメント川渡河を準備するイタリア軍司令部に白旗を掲げて休戦を求めた。十分な戦果を得ていたイタリア側も今度は受け入れ、同日の内に休戦条約が調印される運びとなり、オーストリア=ハンガリー帝国の敗戦が実質的に決定した。両者間で取り結ばれたヴィラ・ジュスティ休戦協定は署名日の11月3日午後3時から24時間後に施行される事になっていた。従って11月3日から4日の3時までは前線では戦闘の可能性が残されていたが、早期の和平交渉を望むオーストリア軍代表ウェーバー将軍 (Viktor Weber Edler von Webenau) は11月3日中に負傷兵を含む残余兵30万名へ停戦命令を出した。ウェーバーは署名発行前の停戦命令でイタリア側が進軍を止めて交渉を始める事を期待した。 しかしイタリア軍内部の強硬派は優勢であるにも関わらず結ばれた休戦協定に不快感を抱き、休戦協定施行までは進撃を継続するべきと主張した。その中心人物がピエトロ・バドリオ(のちに元帥)であり、彼は軍内部の穏健派に必要なら休戦協定の破棄すら検討するべきだと述べた。事実、壊滅的な打撃を受けていたオーストリア軍は故郷に向かって敗走を開始しており、ウェーバーの停戦命令が出される前からもともと反撃できる状態ではなかった。ウェーバーは進軍継続は協定違反だと訴えたが、イタリア軍が進軍を継続した11月4日午後3時までは休戦協定は国際法上機能していなかった。結局イタリア陸軍50万は11月4日中に関しては進軍継続を決定、タリアメント川を渡河して残りの占領地の回収を開始した。 隊伍を乱して敗走していたオーストリア兵やハンガリー兵は各地で投降して、最終的に残存部隊の殆どが拘束されてイタリア本国の捕虜収容所に収監された。イタリア陸軍は殆ど損害を受けずに11月4日午後3時にイソンツォ川に到達した。休戦協定で立ち退きが決定していた南チロルも合わせて占領下に置かれた。
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