オーストリア軍の動き
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「サン・ピエトロの戦い」の記事における「オーストリア軍の動き」の解説
同盟軍がミラノを占領すると、オーストリアは救援軍を編成した。カルロ・エマヌエーレ3世がミラノの確保に固執したため、オーストリア軍の一部は1733年11月にアルプスを越えて守備の強固なマントヴァに到着、そこにいる軍勢の人数を7千人に引き上げた。ミラノでの要塞から引き揚げた軍により、マントヴァの軍勢は年末には1万2千にまで膨れ上がった。1734年1月、フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルク=ヴィンネンタル(英語版)は軍にポー川とオーリオ川を巡回させ、同盟軍の動きを見張るとともに、チロルとミラノの境界を要塞化した。3月までにオーストリア軍が2万4千人に増え、クロード・フロリモン・ド・メルシー(英語版)元帥が指揮を執った。彼は攻勢に出ることはマントヴァかチロルの辺境の守備を弱くしすぎると考え、守備態勢をつづけた。4月の初め、オーストリア軍はようやく進軍し、ミンチョ川に進んだ。プリンツ・オイゲンは4月26日にメルシーに手紙を書き、戦役を始めるよう命じた。このときには、北イタリアにおけるオーストリア軍は5万5千を越えた。 5月1日、オーストリア軍左翼はポー川の渡河をはじめ、南岸にいるフランス軍の派遣隊をパルマへ撤退させた。ヴュルテンベルク率いるオーストリア軍左翼はそのまま川を上ってパルマへ向かい、一方メルシー率いる右翼は補給が必要なのと、メルシーが卒中により失明したため進軍が遅れた。6月1日、ヴュルテンベルクはパルマ近くのコロルノで橋頭堡を守っていたフランスの先遣隊を撃退した。3日から8日まで、同盟軍の大半はサッカ(Sacca)でポー川を渡河、そこの守備隊と合流した。4日から5日、サルデーニャ軍の派遣隊はオーストリア軍をコロルノから追い出し、オーストリア軍はソルボロに後退し、パルマにいる同盟軍への攻撃を計画した。
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