42年春の戦況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:56 UTC 版)
「コトゥジッツの戦い」の記事における「42年春の戦況」の解説
1742年春、メーレンでの作戦を断念したプロイセン軍はベーメン北東部に撤退し、兵を休息させるとともに本国からの増援を受けて戦力を再編した。フリードリヒ大王はこのままエルベ川の線を保持してプラハのフランス軍と連絡を保つつもりだったが、一方でブロイとの連携不調やザクセンの戦線離脱に嫌気がさして単独講和の道を探り出し、ポデヴィルスに、以前から働きかけを受けているイギリスを介してのオーストリアとの和平交渉の再開を命じていた。 対してオーストリア軍を指揮するカール公子とケーニヒスエッグは、メーレンを回復した後、北西に進んでプロイセン軍とプラハの連絡を断ちつつ、東からプラハを攻撃することを決定した。ザクセン軍が撤退した結果サザワ川に防衛戦力は残っておらず、オーストリア軍は抵抗なく進軍を行い、先行するフザール部隊の一部はエルベ川に達してプロイセン軍の設置した中継基地を脅かした。 オーストリア軍の動きを見て大王はプラハとの連絡を維持するために一戦を決意し、プロイセン軍はクルディムに集結した。オーストリア軍のフザールがコリーンの橋を占領したとの報告を受けて、大王は敵より先にクッテンベルクを占領してエルベ南岸からオーストリア軍を排除し、基地を守らなければと考え、5月15日、全軍の三分の一、約1万の軍を率いて先にクルディムを出発し、残りの主力部隊は若デッサウが補給隊列とともに指揮して大王の後を追うこととした。
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