オーストリア軍騎兵の突撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:08 UTC 版)
「モルヴィッツの戦い」の記事における「オーストリア軍騎兵の突撃」の解説
オーストリア軍の戦列展開はプロイセン軍以上に手間取り、敵が前進を開始してもまだ展開を終えていなかった。レーマー(ドイツ語版)の指揮するオーストリア軍左翼の騎兵軍団は一足先に展開を完了して命令を待っていたが、ナイペルクが中央と左翼の配置調整で忙殺されていたため行動についての指示を得られなかった。しばらくの間レーマー軍団はプロイセン軍砲兵に一方的に撃たれるのを耐えなければならなかったが、このときプロイセン軍右翼騎兵が中央の部隊と歩調を合わせるために動きを止め、また右側面を露呈しているのを見てレーマーはただちの攻撃を決断した。 午後1時半ごろ、レーマー騎兵軍団は一度北東に機動したあと右に急旋回し、プロイセン軍右翼に突撃した。シューレンブルクの騎兵軍団はこれを回避することも対抗突撃を行うこともできず、粉砕された。シューレンブルクはオーストリア軍騎兵にサーベルで顔を切り裂かれ、片方の眼球が眼窩から零れてぶら下った。シューレンブルクはなお戦闘を続行したがまもなく頭を撃たれて戦死した。 オーストリア軍騎兵はそのままプロイセン軍騎兵を追い立て、あるいは歩兵戦列に突撃した。歩兵戦列の前に出ていたプロイセン軍砲兵は騎兵に襲われて戦死するか砲を放棄するしかなかった。大王は右翼軍団中のヴィンターフェルト擲弾兵大隊にあって騎兵に統率を取り戻そうとし、中隊単位で再編成した騎兵を次々と送りだしたが、焼け石に水だった。プロイセン軍騎兵は敗走し、一部は自軍左翼まで逃げ回った。オーストリア軍騎兵は引き続いてプロイセン軍歩兵戦列に殺到した。 左翼からシュヴェリーンが駆けつけたとき、プロイセン軍右翼はひどい混乱に襲われていた。オーストリア軍騎兵がプロイセン軍歩兵戦列の周りを縦横に走り回って隙を探っており、歩兵部隊は各個に発砲して敵を寄せ付けまいと懸命になっていた。大王のすぐ目の前で王族の一人ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フリードリヒが砲弾の直撃を受けて首から上を吹き飛ばされた。シュヴェリーンは、会戦の敗北はいくらでも取り返しがつくが王の生死は王冠の問題だからと言って戦場からの退避を勧めた。大王は一度は拒否したが、また歩兵戦列に対して突撃が行われ、これを退けたものの、いつまで持つものかはなはだ怪しいように思われた。 シュヴェリーンは再度大王に避難を求め、諸将もこれに同調した。午後4時ごろ、大王はシュヴェリーンに指揮を預けて戦場を離脱した。
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