午後1時半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 15:32 UTC 版)
中央部隊も大激戦であった。特に両軍の総旗艦が衝突した。ドン・フアンのガレー船はドーリアの進言により衝角を短くしていたため高い位置にあり、射撃(火縄銃による)の際有利であった。この戦闘によりアリ・パシャが戦死したため、オスマン艦隊の旗艦は投降した。双方のガレーの櫂手はキリスト教徒とイスラム教徒の奴隷で構成されており、拿捕されるとキリスト教船員は挙って連合軍へ加勢した。 戦場の南では、ドーリアとウルグ・アリが南へ移動し続けていたが、やがてウルグ・アリは北への転進をはかる。そこへ連合艦隊左翼部隊・中央部隊で戦闘に決着がついたドン・フアンおよびサンタ・クルス侯がドーリア艦隊の救援に赴き、さらにドーリアも北へ転進した。すでにシロッコ、アリ・パシャ、アサンとも戦死しており、これ以上の戦闘は無益とウルグ・アリ艦隊は戦線離脱した。 士気の低かったオスマン帝国側は戦闘開始1時間半で早々に逃亡を始めている。なお、致命傷を受けたバルバリーゴは2日後に死亡して他にも艦長クラス以上の戦死者も出たが、全体としてカトリック同盟側の損害は軽微である。
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