オーストリア軍のシュレージエン侵入と撤退とは? わかりやすく解説

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オーストリア軍のシュレージエン侵入と撤退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)

第二次シュレージエン戦争」の記事における「オーストリア軍のシュレージエン侵入と撤退」の解説

プロイセン軍ベーメンから駆逐したオーストリア軍は、そこで冬営に入るのではなく引き続いてただちにシュレージエン奪回とりかかるようマリア・テレジアから命令された。グラッツ郡ではオーストリア軍全域侵入してプロイセン保持するのはフーケの守るグラッツ要塞のみとなり、一方でオーストリア軍主力は上シュレージエン向かっていた。上シュレージエンではメーレン境まで後退したマルヴィッツ軍が抵抗試みていた。パンドゥールはすでに上シュレージエン侵入始めていた。 シュレージエン到着した大王本国から老デッサウ呼んでシュレージエン防衛指揮託しシュレージエン行政長官ミュンヒョウに軍への補給手配冬営準備命じた大王自身は軍再建のため12月12日ベルリン帰還したものの、シュレージエン状況緊迫していたためすぐ現地に戻らねばならなかった。 オーストリア軍目的シュレージエン内に喰い込んでそこで冬営することで、それを許せば次の戦役プロイセン軍にとって著しく不利になることは明らかだった大王は敵の侵入を許すな、断固撃退せよと命じたものの、マルヴィッツ軍は優勢なオーストリア軍前進してくるとトロッパウからラティボル後退せざるを得なかった。マルヴィッツが心臓発作急死したため老デッサウ息子一人ディートリヒ指揮引き継いだが、上シュレージエンプロイセン軍はさらにコーゼルに後退してオーストリア軍は上シュレージエン南部着実に進出しノイシュタット占領した。これに対応して年明け1月9日、老デッサウ不十分ながら再編成間に合わせたプロイセン軍ナイセ川渡りオーストリア軍撃退するべく南に向けて前進した。 このとき上シュレージエンにいたオーストリア軍疲労達していた。彼らは春にライン川渡り、夏はエルザスにいてそこからドイツ横断してベーメン戦い、冬になってもまだ戦い続けているという状態で、物資兵員欠乏甚だしく真冬作戦はさらに彼らを消耗させ、シュレージエン入ったことで補給難も生じていた。またプロイセン軍ベーメンから撃退した後はバイエルンに軍の勢力割かれていた。プロイセン軍押し出してくるとオーストリア軍後退した1月16日プロイセン軍はイェーゲルンドルフに達してオーストリア軍接近したが、上記のような理由があってトラウン会戦回避しシュレージエンでの冬営諦めて撤退移ったプロイセン軍はさらに追撃して2月には上シュレージエン回復した並行して2月14日、グラッツにおいてレーヴァルト率いプロイセン軍がハーベルシュヴァルツでヴァリスオーストリア軍撃破し、グラッツからもオーストリア軍駆逐した戦局膠着してようやく両者とも冬営入り大王はまた本国戻った1744年戦役プロイセン軍負った損害は実に甚大であったオーストリア軍投降したプロイセン兵士1万7千人に及ぶとされ、一説によればベーメンからシュレージエン帰り着くことのできた兵士の数は元の半分の36千人ほどだったという。一度軍中広まった疫病はなかなか収まることなく依然として多数傷病兵抱えており、装備弾薬損失考え合わせると、1745年初めプロイセン軍戦闘能力喪失しかけていた。 損害物的な面に留まらず精神的な面にも及んでいた。大王将兵信頼失いつつあり、将校投げやりになり、兵士たちの間でも規律団結失われようとしていた。プロイセン支配揺らいでいることを感じたシュレージエン住民には公然とした反抗見られた。1744年敗北から1745年春までのプロイセンは、大いなる危機中にあった。 大王はのちの著作においてこの年戦役記述を以下のように締めくくり、また一会戦に及ばすしてプロイセン軍勝利したトラウンを讃えた。 どの将軍もこの戦役で私以上の失敗をしなかった。まずなにより失敗は、ベーメンにおいて少なくとも6か月間の活動維持するのに必要な量の物資準備して行かなかったことだ。我々は軍というものが胃袋によって成り立っていることを知っている。しかしそれが全てではない。ザクセン侵入するときに私は、ザクセンがすでにヴォルムス条約加盟していることを知っていた。私はザクセンにその所属する同盟変えさせるか、さもなくばベーメンに入る前に彼らを打ち倒しておくべきだったプラハ包囲中、ベラウンでバッチャーニ元帥に対して不十分な規模支隊しか送らなかったとき 、彼らが非凡な勇気持ち主なかったら彼らは失われていただろう。プラハ占領した後には、全軍半分戦力でもってバッチャーニ元帥攻撃しロートリンゲン公子到着する前に彼を撃破しピルゼン集積物資を奪うのが良策であったろう。オーストリア軍ベーメンでの活動のために準備されていたその物資の損失は、彼らに改め物資集積させることによって時間を費やさせ、それは彼らをしてこの地方を失わしめることになっただろう。もし誰かが、なんとかプロイセン物資満たそうとするのに払われ充分な熱意感じることがなかったというのなら、私はそのことについて非難されるべきであろう。しかし補給要員に対してそれは無用である。彼らは彼ら自身のための物資を空にして補給届けたのだ。私に、君主としてベル=イル元帥との間に、ターボルおよびブトヴァイスに進出するという彼の提案した計画了承したという弱みがあったとしてもしかし、計画が困難もしくは危険であることを認めたときには、それ(協定拘ること)は重要でもない戦争原理にも反していた。そこ(戦争原理)から離れることは許されない。その誤りの後にすべての失敗が続くことになった最終的に我が軍ターボル方面行軍することによって敵のベーメンへの行軍宿営許した。この地方すべての好意オーストリア軍のためにあったトラウン元帥はセルトリウスの役割果たし、私はポンペイウスだった。トラウン元帥指揮完璧な戦例であり、職務愛し才能ある全ての軍人はこれを研究し模範すべきである。私は、この戦役が私にとって戦争術についての学校であった見なしており、そしてトラウン元帥が私の教師であったことをはっきりと認めたい君主にとって幸運はしばし不運よりも致命的ありうる前者は(自身のなした)推測酔わせるが、後者は慎重かつ謙虚に振る舞うようにさせる

※この「オーストリア軍のシュレージエン侵入と撤退」の解説は、「第二次シュレージエン戦争」の解説の一部です。
「オーストリア軍のシュレージエン侵入と撤退」を含む「第二次シュレージエン戦争」の記事については、「第二次シュレージエン戦争」の概要を参照ください。

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