オーストリア軍のシュレージエン侵入と撤退
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「第二次シュレージエン戦争」の記事における「オーストリア軍のシュレージエン侵入と撤退」の解説
プロイセン軍をベーメンから駆逐したオーストリア軍は、そこで冬営に入るのではなく、引き続いてただちにシュレージエンの奪回にとりかかるようマリア・テレジアから命令された。グラッツ郡ではオーストリア軍が全域に侵入してプロイセンが保持するのはフーケの守るグラッツ要塞のみとなり、一方でオーストリア軍主力は上シュレージエンに向かっていた。上シュレージエンではメーレン境まで後退したマルヴィッツ軍が抵抗を試みていた。パンドゥールはすでに上シュレージエンに侵入を始めていた。 シュレージエンに到着した大王は本国から老デッサウを呼んでシュレージエン防衛の指揮を託し、シュレージエン州行政長官ミュンヒョウに軍への補給手配と冬営準備を命じた。大王自身は軍再建のため12月12日にベルリンに帰還したものの、シュレージエンの状況が緊迫していたためすぐ現地に戻らねばならなかった。 オーストリア軍の目的はシュレージエン内に喰い込んでそこで冬営することで、それを許せば次の戦役がプロイセン軍にとって著しく不利になることは明らかだった。大王は敵の侵入を許すな、断固撃退せよと命じたものの、マルヴィッツ軍は優勢なオーストリア軍が前進してくるとトロッパウからラティボルに後退せざるを得なかった。マルヴィッツが心臓発作で急死したため老デッサウの息子の一人ディートリヒが指揮を引き継いだが、上シュレージエンのプロイセン軍はさらにコーゼルに後退してオーストリア軍は上シュレージエン南部に着実に進出し、ノイシュタットを占領した。これに対応して年明け1月9日、老デッサウと不十分ながら再編成を間に合わせたプロイセン軍はナイセ川を渡り、オーストリア軍を撃退するべく南に向けて前進した。 このとき上シュレージエンにいたオーストリア軍は疲労の極に達していた。彼らは春にライン川を渡り、夏はエルザスにいてそこからドイツを横断してベーメンで戦い、冬になってもまだ戦い続けているという状態で、物資と兵員の欠乏は甚だしく、真冬の作戦はさらに彼らを消耗させ、シュレージエンに入ったことで補給難も生じていた。またプロイセン軍をベーメンから撃退した後はバイエルンに軍の勢力を割かれていた。プロイセン軍が押し出してくるとオーストリア軍は後退した。 1月16日、プロイセン軍はイェーゲルンドルフに達してオーストリア軍に接近したが、上記のような理由があってトラウンは会戦を回避し、シュレージエンでの冬営を諦めて撤退に移った。プロイセン軍はさらに追撃して2月には上シュレージエンを回復した。並行して2月14日、グラッツにおいてレーヴァルト率いるプロイセン軍がハーベルシュヴァルツでヴァリスのオーストリア軍を撃破し、グラッツからもオーストリア軍を駆逐した。戦局は膠着してようやく両者とも冬営に入り、大王はまた本国に戻った。 1744年の戦役でプロイセン軍の負った損害は実に甚大であった。オーストリア軍に投降したプロイセン兵士は1万7千人に及ぶとされ、一説によればベーメンからシュレージエンに帰り着くことのできた兵士の数は元の半分の3万6千人ほどだったという。一度軍中に広まった疫病はなかなか収まることなく、依然として多数の傷病兵を抱えており、装備弾薬の損失も考え合わせると、1745年初めのプロイセン軍は戦闘能力を喪失しかけていた。 損害は物的な面に留まらず精神的な面にも及んでいた。大王は将兵の信頼を失いつつあり、将校は投げやりになり、兵士たちの間でも規律と団結は失われようとしていた。プロイセンの支配が揺らいでいることを感じたシュレージエンの住民には公然とした反抗が見られた。1744年の敗北から1745年春までのプロイセンは、大いなる危機の中にあった。 大王はのちの著作においてこの年の戦役の記述を以下のように締めくくり、また一会戦に及ばすしてプロイセン軍に勝利したトラウンを讃えた。 どの将軍もこの戦役で私以上の失敗をしなかった。まずなによりの失敗は、ベーメンにおいて少なくとも6か月間の活動を維持するのに必要な量の物資を準備して行かなかったことだ。我々は軍というものが胃袋によって成り立っていることを知っている。しかしそれが全てではない。ザクセンに侵入するときに私は、ザクセンがすでにヴォルムス条約に加盟していることを知っていた。私はザクセンにその所属する同盟を変えさせるか、さもなくばベーメンに入る前に彼らを打ち倒しておくべきだった。プラハ包囲中、ベラウンでバッチャーニ元帥に対して不十分な規模の支隊しか送らなかったとき 、彼らが非凡な勇気の持ち主でなかったら彼らは失われていただろう。プラハを占領した後には、全軍の半分の戦力でもってバッチャーニ元帥を攻撃し、ロートリンゲン公子が到着する前に彼を撃破してピルゼンの集積物資を奪うのが良策であったろう。オーストリア軍のベーメンでの活動のために準備されていたその物資の損失は、彼らに改めて物資を集積させることによって時間を費やさせ、それは彼らをしてこの地方を失わしめることになっただろう。もし誰かが、なんとかプロイセンの物資を満たそうとするのに払われた充分な熱意を感じることがなかったというのなら、私はそのことについて非難されるべきであろう。しかし補給要員に対してそれは無用である。彼らは彼ら自身のための物資を空にして補給を届けたのだ。私に、君主としてベル=イル元帥との間に、ターボルおよびブトヴァイスに進出するという彼の提案した計画を了承したという弱みがあったとしてもしかし、計画が困難もしくは危険であることを認めたときには、それ(協定に拘ること)は重要でもないし戦争の原理にも反していた。そこ(戦争の原理)から離れることは許されない。その誤りの後にすべての失敗が続くことになった。最終的に、我が軍はターボル方面に行軍することによって敵のベーメンへの行軍と宿営を許した。この地方のすべての好意はオーストリア軍のためにあった。トラウン元帥はセルトリウスの役割を果たし、私はポンペイウスだった。トラウン元帥の指揮は完璧な戦例であり、職務を愛し才能ある全ての軍人はこれを研究し模範とすべきである。私は、この戦役が私にとって戦争術についての学校であったと見なしており、そしてトラウン元帥が私の教師であったことをはっきりと認めたい。君主にとって幸運はしばしば不運よりも致命的でありうる。前者は(自身のなした)推測に酔わせるが、後者は慎重かつ謙虚に振る舞うようにさせる。
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