オーストリア継承戦争後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 14:14 UTC 版)
「エドワード・ホーク」の記事における「オーストリア継承戦争後」の解説
平和な時代となり、戦闘の機会は突然終焉を告げた。1747年、ホークは庶民院議員に、海軍の町ポーツマスから出馬して当選し、これがその後30年間に及ぶ議員生活の幕開けとなった。しかし1748年から1752年の4年間は、ほとんどをイギリスで指揮官として過ごし、1755年に再び西方戦隊に戻った。この時期、北アメリカの英仏両植民地での戦闘がすでに始まっていたのである。アーヘンの和約は単に休戦時期が延長されただけだと多くの人が思っており、おそらく戦争は再開されるだろうと広く予測されていた。北アメリカでは、イギリスとフランスが、オハイオカントリーの支配をめぐって衝突し、1754年に向けて戦闘が激化して行った。 ホークは第一海軍卿のアンソンとは不仲だった。しかし両者とも、将来的なフランスとの戦争の経費の見積もりで、共通した見解を持っていた。人間的には合わなかったが、アンソンはホークに大きな敬意を払っていた。それはホークが提督であるからで、アンソンは海軍本部(アドミラルティ)での地位をホークに譲ろうとしていたが、これは成功しなかった。
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