オーストリア第一共和国期
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「カール・ザイツ」の記事における「オーストリア第一共和国期」の解説
1919年にはザイツの役職は正式なものとして確定し、ザイツはオーストリア共和国大統領とオーストリア社会民主労働党党首を兼任することになった。同年3月4日にドイツ=オーストリア暫定国民議会は憲法制定国民議会へと発展解消され、ザイツは同議会議長にも就任した。 1920年10月1日、オーストリア連邦憲法が制定された。同月17日に行われた選挙では保守派のキリスト教社会党(英語版)が勝利をおさめ、ザイツは社会民主労働党左派のオットー・バウアーの提言によってキリスト教社会党との大連立を解消し、同党へ政権の座を譲り渡した。続く11月20日に実施された国民議会議長選挙でもザイツは敗北し、議長にはキリスト教社会党のリヒャルト・ヴァイスキルヒナー(ドイツ語版)が就任した。度重なる選挙での敗北を受けて12月9日にザイツは連邦大統領を辞任、以降は社会民主労働党党首として活動する傍ら、憲法制定国民議会から分離したオーストリア国民議会にて議員の一人としても活動した。 1923年11月13日、ザイツはヤーコプ・ロイマン(ドイツ語版)の後継としてウィーン市長に就任した。ザイツはユリウス・タンドラー(ドイツ語版)、フーゴ・ブライトナー(ドイツ語版)、オットー・グリュッケル(ドイツ語版)らを起用して医療、財政、教育などの様々な面で改革を実行した。ザイツの実施した改革によってウィーンは社会民主主義の見本市となり「赤いウィーン」という通称で呼ばれるまでに至った。1929年には、ウィーンの名誉市民に認定されている。 1933年3月、エンゲルベルト・ドルフースは連邦大統領のヴィルヘルム・ミクラスに国民議会の閉鎖を提言し、議会を閉鎖に追い込んだ。翌年の2月12日から2月内乱が発生し、同日にザイツはウィーン市長を罷免の上逮捕された。加えて、2月内乱は社会民主主義陣営の敗北に終わり、社会民主労働党も結党禁止処分を下され解散となった。ザイツ自身は数か月の拘禁の後釈放されたが、政治家としての彼の人生は終わりを迎えた。 釈放後のザイツはウィーンで生活し、1938年のアンシュルスと1939年の第二次世界大戦の開戦も同地で経験した。1944年7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件との関わりを疑われたザイツはラーフェンスブリュック強制収容所へと投獄され、大戦終結の直前に解放された。
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