オーストリア継承戦争と七年戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 16:27 UTC 版)
「アウグスト3世 (ポーランド王)」の記事における「オーストリア継承戦争と七年戦争」の解説
1740年10月にカール6世が死去すると、アウグスト3世は皇帝ヨーゼフ1世の娘を妃としたこともあってマリア・テレジアに敵対し(オーストリア継承戦争)、ハプスブルク家領の一部を請求した。しかし1742年にはマリア・テレジア支持への鞍替えを余儀なくされ、ザクセン軍は第二次シュレージエン戦争でプロイセン王フリードリヒ2世の軍勢と戦った。 1756年に勃発した七年戦争ではザクセンがプロイセン軍に侵攻されたが、ザクセン軍はピルナ包囲戦で1756年10月に降伏を余儀なくされ、さらにワルシャワのサスキ宮殿(ザクセン宮殿)に避難したアウグスト3世はザクセンを回復しようともせず、ザクセンは戦争を通してプロイセンに占領されたままとなった。 1763年2月のフベルトゥスブルク条約で戦争が終結すると、アウグスト3世はザクセンに戻り、同年10月5日に死去した。息子フリードリヒ・クリスティアンがザクセン選帝侯を継承するも、同年12月に急死した。これにより、アルベルティン系ヴェッティン家はポーランド王位を失った(後にフリードリヒ・クリスティアンの子、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世がワルシャワ公に擁立される)。翌1764年、ロシア女帝エカチェリーナ2世の圧力により、スタニスワフ2世がポーランド王に即位した。
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