ラーフェンスブリュック強制収容所とは? わかりやすく解説

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ラーフェンスブリュック強制収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 03:28 UTC 版)

作業をするラーフェンスブリュックの女囚たち、1939年
地図

ラーフェンスブリュック強制収容所ドイツ語: Konzentrationslager Ravensbrück)は、ナチス・ドイツ強制収容所の1つ。主に女性を収容していたことで知られる。ドイツ東部ブランデンブルク州フュルステンベルク市の近く、ベルリンから北に80キロメートルほどの場所に存在していた。総計12万人以上の女性が収容され、6万人以上が死亡したとみられる。

概要

ラーフェンスブリュックに残されるヴィリー・ラマートフリッツ・クラマー制作の記念碑「二人の女性」

1938年末にフュルステンベルクにラーフェンスブリュック強制収容所の建設が開始された。建設作業にはザクセンハウゼン強制収容所の囚人達が駆り出された。1939年5月13日に最初の囚人としてドイツ人女性860人、オーストリア人女性7人がここに移送されてきた。さらに6月29日にジプシーの女性440人が移送されている。ポーランド占領後の9月23日以降、ポーランド人女性の移送もされてきた。1939年の末の時点で収容所には1168人の女性囚人が収容されていた。その後、第二次世界大戦によるドイツの領土の拡大に伴い、どんどん収容者数が増加する。最終的には総計で23か国12万3000人もの女性がここに登録された。

他の強制収容所と同様、収容所の周囲は高い壁と高電圧鉄条網に囲まれ、機関銃付きの監視塔が囚人ににらみを利かせていた。囚人バラックの数は当初16棟だったが、収容者数の増加に伴い最終的には32棟にまで増設されることとなった。基本的にラーフェンスブリュックは女性用の収容所であったが、男性も収容されることがあり、男性は女性とは別の小収容区と呼ばれる場所に収容されていた。

1944年末には病人を処理するためにガス室が設置された。1945年4月初め、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーとスウェーデン赤十字社の協定に基づき、囚人の交換輸送列車でのスイスへ移送が開始される(ただし病人はガス室に送られ、殺害される)。またラーフェンスブリュックの労働分隊は他の収容所へ向けて死の行進を行わされた。1945年4月30日にソ連赤軍がここに到着した時、女囚はフランス人女性数名だけであったという。一方男性収容区には死体400人、生存者400人ほどが残されていたという。もっとも生存者達も飢え死に寸前の状態であったという。

「罰」

反抗や失態をした囚人には女性だからと手心が加えられることはなく他の収容所と同様に「罰」が下された。殴打や犬に襲わせるといった虐待は日常茶飯事だが、他にもさまざまな罰が存在した。

棒で殴りつける「棒打ち」は反抗や失態の重さに応じて25回・50回・75回の3つが定められていた。50回の「棒打ち」に処された者は致死率が高かった。75回はほぼ確実に絶命した。「ポーズ」と呼ばれる罰も存在した。囚人を直立不動で長時間立たせる罰だが、食事抜き・親衛隊員からの殴打を伴うこともある厳しいものだった。また、「懲罰ブロック」も存在し、ここに収容されると特に激しい肉体労働や糞尿処理、死体処理など苦痛な作業に回された。

処刑

ラーフェンスブリュックでの処刑は絞首刑・銃殺・毒殺・ガス殺でもって行われた。絞首刑は点呼の際に全員が見ている前で執行された。死体は一日以上吊るされて晒しものとされた。銃殺は死体焼却炉のそばの「銃殺刑囚の通路」と呼ばれる場所で行われていた。また医務室に運ばれて毒殺される例もあった。

1944年12月から毒ガスによる殺害が始まった。ガス処理の対象は主に病人ブロックの者達であった。ガス室への移送をラーフェンスブリュック収容所では「ミットヴェルダ収容所へ移送」と記載している(「ミットヴェルダ収容所」なるものは存在していない。)。

人体実験

ラーフェンスブリュックでは女性囚人を使った残虐な人体実験が行われていた。1942年8月から1943年3月にかけて親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの主治医である親衛隊高官の医師カール・ゲプハルトは、ラーフェンスブリュックの15歳から25歳までの若いポーランド人の娘たちを収容所に用意させて彼女たちの体を切り刻んでは筋肉・神経・骨の小片などを集めた。切り裂いた傷口からさまざまな細菌の培養液を注入する実験も行っていた。ゲプハルトたちは少女たちの激痛などお構いなしに骨が見えるまで切り開いた傷口に手で触れて見学していた。

1945年1月には120人から140人のジプシーの女性たちがホルスト・シューマン博士(de:Horst Schumann)、パーシヴァル・トライテ博士(de:Percival Treite)らによる不妊手術の実験に使われた。「下等人種」の女が子供を産めない体にすることを目的としていた。実験に使われた者のうち最年少は8歳の少女だった。ほとんどの女性は実験で死亡した。生き残った一部の者もガス殺されたとみられる。

収容所関係者

所長

看守

女囚

男性囚人

脚注

  1. ^ Marketa Brady (英語) Hana's Story 2012.1.24 07:53 (UTC) 閲覧

参考文献

外部リンク

座標: 北緯53度11分23.550秒 東経13度10分7.712秒 / 北緯53.18987500度 東経13.16880889度 / 53.18987500; 13.16880889


ラーフェンスブリュック強制収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 14:29 UTC 版)

ジェルメーヌ・ティヨン」の記事における「ラーフェンスブリュック強制収容所」の解説

ティヨンもまたこの一環として1942年8月13日、母エミリーとともにゲシュタポ逮捕された。諜報活動機関アプヴェーアを介してナチス・ドイツのために働いていた二重スパイルクセンブルク牧師ロベール・アルシュの密告よるものである。ティヨン親子サンテ刑務所次いでフレンヌ刑務所フランス語版)に拘留され、母エミリーはさらにロマンヴィル要塞フランス語版強制収容所、ロワイヤリュー通過収容所フランス語版)(コンピエーニュ)に送られた。ティヨンはオーレス山地での調査資料持ち込んで博士論文執筆する許可得たが、後に没収され紛失したこの間人類博物館では同僚のジャック・フォブレ(フランス語版)が「オーレス山地コレクション」展を開催し、ティヨンとリヴィエール持ち帰った手工芸品資料など展示された。1943年10月に「ドイツ治安危険に晒す」「夜と霧」の総統命令により、ラーフェンスブリュック強制収容所に送られた。ティヨンの罪状は「ドイツの敵を助けたこと、パラシュート兵宿泊させたこと、スパイ行為働いたこと、フランス人の裏切り者ゲシュタポスパイ活動無害なものにしようとしたこと、(中略)フレンヌの牢獄から三人死刑囚逃亡させよう企てたこと」であった1944年1月31日から2月2日にかけて母エミリーがロワイヤリュー収容所からラーフェンスブリュック強制収容所に送られ解放直前1945年3月2日ガス室殺害された。1945年4月23日にティヨンを含む300人以上のフランス人女性収容者スウェーデン赤十字によって解放された。ティヨンは帰国前の療養のためにヨーテボリスウェーデン)に送られた。ここで彼女は共に解放され女性一人ひとりに質問し氏名囚人番号到着日、フランスから一緒に移送され囚人のおよその数、記憶残っている仲間身元作業班の出発日フランス人の数と氏名などの聞き取りをした。

※この「ラーフェンスブリュック強制収容所」の解説は、「ジェルメーヌ・ティヨン」の解説の一部です。
「ラーフェンスブリュック強制収容所」を含む「ジェルメーヌ・ティヨン」の記事については、「ジェルメーヌ・ティヨン」の概要を参照ください。

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