ラーフェンスブリュックからの引き揚げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/11 05:07 UTC 版)
「白バス」の記事における「ラーフェンスブリュックからの引き揚げ」の解説
ラーフェンスブリュックは、ベルリンの北約90kmにある1938年に開設された女性収容者用の強制収容所であった。4月8日に約100名のスカンジナビア人女性収容者(2名のフランス人女性を含む)が収容所から収容され、直接デンマークのパドボーへ移送された。この段階でフォルケ・ベルナドッテは病気の収容者全員を収容する許可を取っていた。4月22日にアーノルドソン(Arnoldson)大尉率いるデンマークの救急車15台の輸送隊がラーフェンスブリュックから病気の女性収容者を収容するためにフリードリヒスルーを出発した。 輸送隊が収容所に到着したとき、そこは前進してくるソ連軍のため撤収する予定であり混沌とした状況であり、アーノルドソンは、全てのフランス人、ベルギー人、オランダ人、ポーランド人女性の合計1万5,000名を収容するように言われていた。これはその時点で手持ちの「白バス」全てを動員しても3回分に当たる人数であったが、アーノルドソンはこれを了承していた。救急車は112名の病気の女性を収容してリューベックに到着した。アーノルドソンは何とかフォルケ・ベルナドッテに更なる輸送能力が必要なことを知らせ、利用できる全ての資源を動員することが約束された。 新たな2つの輸送隊がラーフェンスブリュックに到着し、1つの輸送隊は4月23日にほぼ全員がフランス人の786名の女性収容者を直接パドボーへ輸送し、2番目の輸送隊は360名の女性収容者を収容した。最後の輸送隊は4月25日にラーフェンスブリュックに到着したが、ドイツ国内の状況は急速に悪化しつつあり連合国軍が前進するにつれ輸送隊は頻繁に銃撃されるようになった。収容所のフランス人、ベルギー人、オランダ人、ポーランド人女性の合計706名がデンマークの救急車と国際赤十字のトラックで構成される輸送隊に乗せられた。この輸送隊がパドボーへ向かう途中で連合国軍の戦闘機に攻撃され、少なくとも11名が死亡、26名が重傷を負い、最終的に死亡者は25名に達したと思われる。 スヴェンソン中尉に率いられたバス20台の最後の輸送隊が収容した934名の女性収容者のほとんどはポーランド人であったが、フランス人、アメリカ人、英国人も含まれていた。夜間は休息をとった輸送隊は戦闘機の攻撃を受けたが1945年4月26日に全員無事にパドボーに到着した。これはドイツが降伏する前の最後のスウェーデン輸送隊であった。スウェーデン側は幸運なことに輸送列車を使用することができ、50両の貨物列車の1両当たりに80名の女性収容者を乗せた。列車は4月25日にラーフェンスブリュックを出発し、4月29日にリューベックに到着した。食事が提供された後、列車はデンマークへと向かい、この列車輸送で合計3,989名の女性収容者が救出された。数日間で約7,000名の女性収容者がラーフェンスブリュックからデンマークへ引き揚げ、その後中立国のスウェーデンへ運ばれた。
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