オーストリア移住後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/15 07:48 UTC 版)
「ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルト」の記事における「オーストリア移住後」の解説
全ヨーロッパにまたがるロートシルト銀行帝国の一翼となるべく、1819年にオーストリア政府の許可を得て、ウィーンへ移住した。オーストリアは未だ封建主義的でユダヤ人差別も激しい国だった。そのためロートシルト家としては、ここを担当するのは、兄弟のうち最も封建領主のご機嫌取りがうまいザーロモンが最適と判断したのだった。 当時のオーストリアではユダヤ人の不動産所有が法律で禁じられていたため、ザーロモンは邸宅を持たず、ウィーン市内の「ローマ皇帝ホテル」で仮住まいした。しかし銀行業(「S・M・フォン・ロートシルト銀行(ドイツ語版)」)の方は順調に推移し、オーストリア公債の公募と債券の発行で巨額の利益を上げた。 宰相メッテルニヒをはじめとするオーストリア政府中枢部とも緊密な関係となった。メッテルニヒからの依頼を受けて、パルマ女公マリア・ルイーザ(元ナポレオン皇后)の私生児ウィルヘルム・アルブレヒト・フォン・モンテヌヴォ(ドイツ語版)伯爵のための財産を巧みな金融操作によって作り出すことにも貢献した。1822年にはハプスブルク家から彼を含むロートシルト5兄弟全員に男爵位が送られている。 1835年、フェルディナントが皇帝に即位すると鉄道建設プロジェクトの請願を出した。この鉄道の名前をカイザー・フェルディナント・北部鉄道(英語版) (現オーストリア北部鉄道)と名付けることにより、皇帝の自尊心をくすぐり建設にこぎつけ、オーストリアの鉄道王としても知られるようになった。また彼はオーストリア・ロイド(英語版)汽船会社の発起人となったり、1843年にはスレスコ地方(現チェコモラヴィア・スレスコ州)ヴィトコヴィッツ(英語版)にあるヴィトコヴィッツ製鉄所(英語版)を独占所有した。このようにして、元々は銀行家であった彼は産業資本家としての一面も持つに至った。 慈善事業も積極的に行い、病院の建設や給水設備の設置に莫大な寄付を行った。様々な法的制限を課せられているユダヤ人の地位改善にも努めた。1843年には最後まで残されていたユダヤ人に対する権利制限である不動産購入禁止も解禁された。これを機にザーロモンもモラビアやシレジアなどに大荘園を購入したため、彼は瞬く間にオーストリア有数の大地主となった。
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