オーストリア皇帝家
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「ハプスブルク=ロートリンゲン家」の記事における「オーストリア皇帝家」の解説
「オーストリア皇帝」も参照 ハプスブルク=ロートリンゲン家の宗家にあたる。神聖ローマ皇帝・オーストリア大公の他にハンガリー王、ボヘミア王も兼ねていた。神聖ローマ帝国は1806年に解体し、フランツ2世は帝位を降りたが、これに先立つ1804年からオーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後はこの皇帝位がオーストリア=ハンガリー帝国の滅亡まで継承された。これらの帝位および王位はフランツ・シュテファンとマリア・テレジアの夫妻から最後のカール1世まで7代にわたって継承されたが、直系継承されたのは3度だけである。 フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世は父から帝位を、母からオーストリア大公位およびハンガリーとボヘミアの王位を継承したが、子供がなく、トスカーナ大公位を継承していた弟レオポルト2世が代わって帝位および王位に就いた。レオポルト2世からフランツ2世/1世、フェルディナント1世までは直系継承が続いたが、子供のないフェルディナント1世が1848年の3月革命で退位すると、弟フランツ・カール大公(帝位を辞退)の長男フランツ・ヨーゼフ1世が即位した。なお、フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンはメキシコ帝国の皇帝となったが、メキシコの自由主義勢力によって銃殺刑に処せられた。 フランツ・ヨーゼフ1世の下、1867年にオーストリア帝国はオーストリア=ハンガリー二重帝国に再編される。オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる点はそれまでと同様であったが、軍事・外交・財政を除いてはオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政策を行うという体制であった。フランツ・ヨーゼフは唯一の息子であった皇太子ルドルフの死後、甥のフランツ・フェルディナント大公を皇位継承者としたが、1914年のサラエヴォ事件で暗殺され、これがきっかけとなって第一次世界大戦が勃発する。大戦中にフランツ・ヨーゼフは死去し、フランツ・フェルディナントの甥カール1世が帝位を継ぐが、大戦末期の1918年に帝国は滅亡し、オーストリア共和国が成立するとともに、ハンガリーやチェコスロヴァキアを始めとする多くの国々が独立した。カール1世はハプスブルク法を拒絶して亡命し、1922年に病死した。 6歳足らずで皇太子の地位を失ったカール1世の長男オットーは、20世紀の終わりにドイツ選出の欧州議会議員を務めた。オットーは2011年に98歳で死去したが、ハプスブルク=ロートリンゲン家の家長の座は2006年に高齢を理由として長男カールに譲っている。カールも欧州議会議員を務めたが、こちらはオーストリア選出である。
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