オーストリア皇帝家とは? わかりやすく解説

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オーストリア皇帝家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 04:05 UTC 版)

ハプスブルク=ロートリンゲン家」の記事における「オーストリア皇帝家」の解説

オーストリア皇帝」も参照 ハプスブルク=ロートリンゲン家宗家にあたる。神聖ローマ皇帝オーストリア大公の他にハンガリー王ボヘミア王兼ねていた。神聖ローマ帝国1806年解体しフランツ2世帝位降りたが、これに先立つ1804年からオーストリア皇帝フランツ1世称しており、以後はこの皇帝位オーストリア=ハンガリー帝国滅亡まで継承された。これらの帝位および王位フランツ・シュテファンマリア・テレジア夫妻から最後カール1世まで7代わたって継承されたが、直系継承されたのは3度だけである。 フランツ・シュテファンマリア・テレジア長男ヨーゼフ2世は父から帝位を、母からオーストリア大公位およびハンガリーボヘミア王位継承したが、子供がなく、トスカーナ大公位を継承していた弟レオポルト2世が代わって帝位および王位就いたレオポルト2世からフランツ2世/1世、フェルディナント1世までは直系継承続いたが、子供のないフェルディナント1世1848年3月革命退位すると、弟フランツ・カール大公帝位辞退)の長男フランツ・ヨーゼフ1世即位した。なお、フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンメキシコ帝国皇帝となったが、メキシコ自由主義勢力によって銃殺刑処せられた。 フランツ・ヨーゼフ1世の下、1867年オーストリア帝国オーストリア=ハンガリー二重帝国再編される。オーストリア皇帝ハンガリー王兼ねる点はそれまでと同様であったが、軍事・外交財政除いてオーストリアハンガリー2つ政府が独自の政策を行うという体制であったフランツ・ヨーゼフ唯一の息子であった皇太子ルドルフ死後、甥のフランツ・フェルディナント大公皇位継承者としたが、1914年サラエヴォ事件暗殺され、これがきっかけとなって第一次世界大戦勃発する大戦中にフランツ・ヨーゼフ死去しフランツ・フェルディナントの甥カール1世帝位を継ぐが、大戦末期1918年帝国滅亡しオーストリア共和国成立するとともにハンガリーチェコスロヴァキア始めとする多く国々独立したカール1世ハプスブルク法拒絶して亡命し1922年病死した。 6歳足らず皇太子地位失ったカール1世長男オットーは、20世紀終わりドイツ選出欧州議会議員務めたオットー2011年98歳で死去したが、ハプスブルク=ロートリンゲン家家長の座は2006年高齢理由として長男カール譲っている。カール欧州議会議員務めたが、こちらはオーストリア選出である。

※この「オーストリア皇帝家」の解説は、「ハプスブルク=ロートリンゲン家」の解説の一部です。
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