オーストリア消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 16:08 UTC 版)
3月12日午前8時、ドイツ軍の進駐が開始された。ドイツ軍は各地で熱狂的な歓迎を受け、そのため進軍速度が鈍ることもあった。首相となったザイス=インクヴァルトは、続いて名目上の国家元首であるミクラス大統領に対して、ドイツとの合併協定を締結するように迫った。ミクラスはこれを拒絶して辞職したため、ザイス=インクヴァルトは大統領の権限も代行することになった。ただし、ミクラスは戦後に自分は辞意を表明した事はなく、ザイス=インクヴァルトが一方的に宣言したものであり、彼を首相に任命してもいないと証言している。 1938年3月13日、ザイス=インクヴァルトはウィーンに迎えたヒトラーの目の前でオーストリアを新たなドイツの州・オーストリア州(Land Österreich)とする法案「ドイツ国とオーストリア共和国の再統合に関する法律」を起草して署名を行った。4月10日、ヒトラーとザイス=インクヴァルトは独墺両国で合邦の是非を問う「国民投票」を行い、97%の合邦賛成票を集めたことを発表した。これにより、オーストリアはドイツに併合されてオーストリア州となり、ザイス=インクヴァルトはオストマルク州総督に就任した。イタリアや日本、フランスなどの列強は直ちにウィーンの大使館を領事館に格下げして、事実上の併合を認めた。 かつて、ドイツとオーストリアの合併に反対したフランスなどは20年前にドイツ系オーストリアのドイツへの合併を認めなかったのは民族自決の原則に反した歴史的な過ちであったと主張して、20年前とは全く逆の論理でオーストリアを突き放した。 なお、アンシュルスを期に、オーストリアの自動車交通(対面交通)は左側通行からドイツ同様の右側通行に変更されている。
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