オーストリア支配の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 22:05 UTC 版)
第一次世界大戦中、ケルンテン公国(コロシュカ地方のドイツ語名)とシュタイヤーマルク公国の多くのスロベニア人たちは、伝えられるところでは帝国の敵となったことで留め置かれ、オーストリア人とスロベニア人との間の対立がさらに引き起こされた。オーストリア=ハンガリーの崩壊後、マリボルの領有をスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国とドイツ=オーストリア共和国の両方が請求した。1918年11月1日、メリェの兵舎でアントン・ホリク大佐によって会合がもたれ、市がドイツ=オーストリアに併合されることが決められた。陸軍少佐ルドルフ・マイスター(スロベニア語名:ルドルフ・マイストル、Rudolfu Maistru)はその会合に出席し、決定を拒否した。同日、シュタイエルスカ地方の国民議会によってマイスターは将軍の地位を与えられた。そしてドイツからの完全な解放を勝ち取るためにマリボルでスロベニア人の軍事部隊が組織された。ドイツ兵と士官全員が動員を解除され、新たにできたドイツ=オーストリア共和国へ送還された。市議会は秘密の会合を開いた。ドイツ=オーストリアがスロベニアの地を得ることが可能か否かをもたらす決定だった。彼らは、シュツヴァー(Schutzwehr、緑の警護兵)という軍の一部隊を組織した。およそ400人の腕の立つこの部隊の兵士たちはマイスターを脅かし、11月23日早朝にスロベニア軍がドイツ=オーストリア側を武装解除するのを率いた。その結果、マリボルにおいてマイスターの幹部に対して実際の脅威はなかった。 1919年1月27日、ドイツが待ち望んでいたアメリカ合衆国の和平代表団が、マリボルの市場広場にてスロベニア軍によって攻撃された。数千人の市民たちが恐れおののいた。9人が犠牲となり、80人以上が重傷を負った。最終的に確証されていなかった射撃にその責任があった。ドイツの情報源は、きっかけがないのにマイスターの軍が射撃したと非難した。ポハル博士のようなスロベニア人目撃者は、ドイツ側が市庁舎を警備するスロベニア兵を攻撃したと証言した。なんにせよ、ドイツ人死者たちは非武装の人々であった。ドイツのメディアはこの事件を「マルブルクの血塗られた日曜日」と呼んだ。 マリボルがスロベニア軍の手中にしっかりと収まり、完全にスロベニア領に囲まれてから、第一次世界大戦の戦勝国とドイツ=オーストリア側との間で1919年9月に締結されたサン=ジェルマン条約で盛り込まれた国民投票なしに、マリボルはユーゴスラビア王国の一部とみなされるようになった。 1918年以後、マリボル在住のドイツ人たちはその多くがオーストリアへ向けて出国した。特に、マリボル周辺に出自を持たない将校たちだった。ドイツ人学校、クラブ、そして団体は新国家ユーゴスラビア王国で閉鎖された。それでも、1930年代の市人口の25%をドイツ人が占めていた。文化的同化の政策が少数派ドイツ人に対してユーゴスラビアで進められた。これはオーストリア国内で少数派スロベニア人に対してドイツ化が行われていることに対する反応であった。しかし、1930年代にこの政策は廃棄され、少数派ドイツ人の地位は顕著に改善された。
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