オーストリア海軍での軍歴
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「マクシミリアン (メキシコ皇帝)」の記事における「オーストリア海軍での軍歴」の解説
1852年にブラジル皇女マリア・アメリア・デ・ブラガンサと婚約するも、1853年にマリア・アメリアは病死。翌1854年、オーストリア海軍の司令長官となる。 フェルディナント・マクシミリアンは特に利発な少年であった。芸術の分野ではかなりの教養を現し、科学においてとくに植物学には幼いうちから興味を示した。軍に入隊すると、オーストリア海軍で訓練を受けた。彼は海軍に身を投じると情熱を注ぎ、急速に昇進した。 マクシミリアンは18歳で中尉になり、1854年には司令官としてコルベット「ミネルヴァ(Minerva)」の帆走を指揮し、この航海ではアルバニアとダルマチア沿岸を探検した。22歳で、オーストリア海軍の少将に就任した。彼以前のフリードリヒ大公(1821年–1847年)のように彼は戦艦に鋭い興味をしめし、海軍は彼によって皇帝家からの影響力の支援を獲得した。外交において海軍力を重視していなかったオーストリアにとってこれは画期的であった。 それまで海軍は公的な支援は相対的に低く、皇子の積極的な支援で、海軍は顕著な公的な関心と資金を引き出すことを可能にした。海軍少将として、マクシミリアンは多くの海軍近代化のための改革を実行し、彼は、ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ提督がのちに勝利を収めるフリート艦と同様にトリエステ軍港とポーラ(現在のプーラ)軍港の建設を支援した。彼はまた世界一周航海 (1857年–1859年) を企画し、フリゲート艦 SMS Novaraはオーストリアでははじめて世界一周航海を果たした戦艦となった。
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