オーストリア戦役
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「アントワーヌ・シャルル・ルイ・ド・ラサール」の記事における「オーストリア戦役」の解説
1809年5月13日にラサールは軽騎兵を率いてライン川を渡河し、戦列を整えた。 アスペルン・エスリンクの戦い 5月21日アスペルン・エスリンクの戦いが勃発した。朝8時頃のアスペルンではすでに一進一退の攻防が繰り広げれていた。ナポレオンは戦況を打開すべくラサールに、前線で交戦中のマラッズ将軍を援護するように命令した。ラサールは軽騎兵を率いてオーストリア軍を側面から激しく突撃し、ついには敵を敗走させた。その後、フランス歩兵軍団が後詰めとして攻勢をかけ、前線を押し上げた。17時頃に、彼はもう一度オーストリア軍に猛烈な突撃を仕掛け、前衛部隊を打ち破った。 次の日の戦いではフランス第4軍団の援護を任された。 ラサール率いる軽騎兵部隊は霧に紛れて静々と敵軍に近付くと、一気に奇襲を畳み掛けた。敵兵は霧散し、壊滅状態に陥った。この活躍により敵の伏兵作戦は頓挫し、第4軍団は難なく戦場に辿りつくことが出来た。 その後、主戦場に赴いたラサールはランヌ将軍が部隊を展開するまでの前線指揮を任された。ラサールは無謀な突撃を一回行い、敵に挫かれたものの、その後は必死の督戦で何とか持ち堪えた。
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