オーストリア一国での抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:36 UTC 版)
「1809年オーストリア戦役」の記事における「オーストリア一国での抵抗」の解説
オーストリアは直近の敗北の復讐をするために、これまでと異なるフランスへの対抗策を模索したが、スペインの反仏感情を悪化させる事しかできなかった。また1809年にロシアはイギリス、スウェーデン、オスマン帝国と戦争をしていたため、オーストリアはロシアの援助は考慮していなかった。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のプロイセン政府の一部は当初オーストリアを助けたがっていた。しかしハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインのオーストリアとの文通がフランスによって傍受された。この文通にはプロイセンがオーストリアを支援する計画が書かれており、プロイセンはこれ以上の対仏関係の悪化を避けるため、1808年9月のエアフルト会議(英語版)に調印せざるを得なかった。オーストリアの財務大臣の報告書では第三次対仏大同盟時以来の大軍を維持し続けると1809年半ばには国庫が尽きるだろうと予想されていた。しかしカール大公はオーストリアにはナポレオンと対決するための準備がまだ出来ていないと警告した。このカール大公の姿勢は彼を"平和主義"へと陥らせたが、彼は軍を退役する事を望むように見えなかった。1809年2月8日、フランスとの戦争の支持者はついにオーストリア帝政にフランスと戦争を行う事を秘密裏に決意させる事に成功した。
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