オーストリア・ハンガリー帝国支配時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/31 02:58 UTC 版)
「ロガティツァ」の記事における「オーストリア・ハンガリー帝国支配時」の解説
1878年、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下に入るとロガティツァの住民や建物も変わることになる。ユダヤ人の家族や他国の商人、オーストリアの役人やセルビア人などが周囲の村には居住し始めた。最初のオーストリアによる統計調査がボスニア・ヘルツェゴビナで1879年に行われたが、1831年のロガティツァの人口は444人から471人とされる。1879年に行われた調査ではムスリムが1,693人で92.46%を占め、正教が131人で7.16%、ユダヤ人が6人で0.32%、カトリックが1人で0.06%であった。この地域のもともとのボスニア人の多くはムスリムであるとされ、ロガティツアはボスニアでは当時28番目の規模の町であった。 オーストリア支配時にはヨーロッパの文化が入ることになり、とくに使われる文字がラテン文字化されている。軍はサラエヴォ - ロガティツァ - ヴィシェグラード間に1879年に148kmの幹線道路を建設し1906年にはメシツ(Mesic)までの9kmの道も完成している。1905年から1906年には現代的な水道管が敷設され、1908年には下水施設も導入された。戦略的な理由によりボスニア東部鉄道が敷設され、ロガティツァにも鉄道が経由した。この頃、製材所も作られている。オーストリア=ハンガリー支配時のこの時代、徐々にではあるがムスリムたちはこの地域から去っていき、その多くはサラエヴォやトルコへ去っている。
※この「オーストリア・ハンガリー帝国支配時」の解説は、「ロガティツァ」の解説の一部です。
「オーストリア・ハンガリー帝国支配時」を含む「ロガティツァ」の記事については、「ロガティツァ」の概要を参照ください。
- オーストリア・ハンガリー帝国支配時のページへのリンク