オーストリア・ハンガリー統治時代
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「スレムスキ・カルロヴツィ」の記事における「オーストリア・ハンガリー統治時代」の解説
1698年11月16日から1699年1月26日までの間、カルロヴツィの町はオスマン帝国と神聖同盟(Holy League)の戦争終結のための交渉の場となった。神聖同盟は、対オスマン帝国で結ばれたヨーロッパ諸国の同盟であり、ハプスブルク君主国やポーランド・リトアニア共和国、ヴェネツィア共和国、ロシア・ツァーリ国などが加わっていた。この交渉では、国際政治の場において初めて円卓が使用された。 この講和条約のあと、町はハプスブルク君主国の領土となり、軍政国境地帯の一部となった。1702年のデータによると、町には215の正教徒の世帯と、13のカトリック教徒の世帯があった。1753年のデータによると、町の人口は3,843人であり、うち3,110人は民族的にはセルビア人であった。 カルロヴツィは、ハプスブルク君主国におけるセルビア人の文化的・政治的中心地であった。セルビア正教会の府主教はこの町に居住していた。今日でも、セルビア総主教の称号には、「カルロヴツィ府主教(Metropolitan of Karlovci)」が含まれている。1791年8月3日には最初期のセルビアの初等学校が開設された。この3年後、正教会の神学校も開設された。これは、キエフの神学校に次いで世界で2番目に古い正教の神学校であった。現在もこの神学校は存在している。
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