オーストリア独立に際して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 04:25 UTC 版)
「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事における「オーストリア独立に際して」の解説
戦後、オーストリアは連合国の占領統治を受けたが、その中心となった国はウィーンを占領区としたソ連だった。ソ連はカール・レンナーによる政府を樹立し、既成事実として西側諸国に承認させた。この時期オットーは、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領に宛てて、レンナー政府をソ連の傀儡だと主張する手紙を送っている。オットーの猜疑心はけっして特殊なものではなく、西側諸国と西部オーストリア諸州もレンナー政府に強い疑念を抱いていた。レンナー政府はかなりの数の共産主義者を含んでいたことから、西側諸国はレンナー政府を「国民的政府の代表ではない」として、5ヵ月のあいだ承認しなかった。 1952年、フランシスコ・フランコからスペイン王位の打診があったが、オットーはこれを謝絶した。 1955年5月15日、オーストリアと連合国との間でオーストリア国家条約が締結された。オーストリアとドイツとの合邦を禁止する条項が主な内容であるが、その国家条約の中には再びハプスブルク家の復位を禁止する条項が盛り込まれていた。これはソ連の意向が強く反映された結果ともいわれる。この条約によってオーストリアは独立を回復したが、独立後のオーストリアにオットーの居場所はなかった。オットー以下、ハプスブルク家の人々はふたたび国外追放の身となった。1956年、オットーはニーダーエスターライヒ州政府によりオーストリア市民として認知され、「オーストリアを除く全ての国で有効な」オーストリアのパスポートを与えられた。 なお、ハンガリーでもソ連の影響力が強まり大戦当時のホルティ政権ではなくなっていたことから、ハプスブルク家の復位を検討するという話は立ち消えになっていた。オーストリアにおいてもハンガリー等においても、ハプスブルク家は現実政治における存在感をほぼ喪失した。
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