オーストリア国家条約とは? わかりやすく解説

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オーストリア国家条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/28 07:01 UTC 版)

独立、民主主義のオーストリア再建の国家条約
1945年1955年オーストリアの分割占領
1945年1955年の首都ウィーンの分割占領
4人の連合国外務大臣とオーストリア外務大臣の署名
通称・略称 オーストリア国家条約
オーストリア独立条約
署名 1955年5月15日
署名場所 ウィーンベルヴェデーレ宮殿
発効 同年7月27日
締約国 連合国フランスイギリスアメリカ合衆国ソ連)とオーストリア
主な内容 オーストリアを主権国家として再建する
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オーストリア国家条約 (オーストリアこっかじょうやく、ドイツ語:  Österreichischer Staatsvertrag[ヘルプ/ファイル])、もしくはオーストリア独立条約は、オーストリアを主権国家として再建する条約である。

1955年5月15日に、ウィーンベルヴェデーレ宮殿で、連合国フランスイギリスアメリカ合衆国ソ連)とオーストリアが調印し、同年7月27日に発効した。

正式名称は「独立、民主主義のオーストリア再建の国家条約」(ドイツ語: Staatsvertrag betreffend die Wiederherstellung eines unabhängigen und demokratischen Österreich, unterzeichnet in Wien am 15. Mai)。

詳細

自由で、主権を持つ民主国家オーストリアを再建する条約である。1943年10月30日のモスクワ宣言を前提にしている。

調印者

条約の9項目

  • 序文
  • 政治・領域
  • 軍事・航空
  • 賠償
  • 所有権・法律・利子
  • 経済関係
  • 紛争の規則
  • 経済規定
  • 最終規定

発展

戦後の最初の政府が条約を締結しようとしたが、連合国がドイツとの平和条約を優先したために失敗した。冷戦の開始によって条約は遠のいた。この頃、復活したユーゴスラビア社会主義連邦共和国ケルンテン州を割譲するよう要求したが、オーストリアはこれを退けた。しかし、1919年イタリアオーストリア=ハンガリー帝国から奪った南ティロルを取り戻すことは出来なかった。その後1953年スターリンが亡くなったことで交渉の雰囲気が高まり、1955年2月にはソ連モロトフ外務大臣との会談を果たした。

条約の重要項目

オーストリア国家の一般項目に加えて、少数派のスロベニア人クロアチア人の権利についても詳細が定められた。1938年に実行したアンシュルス(政治的統合)を新ドイツと行うことは禁止された。ナチズムファシズムの組織も禁止された。

さらに、条約締結後は永世中立国になることを宣言すると約束した。ソ連はこの宣言をもって、オーストリアがNATOに加盟しないことを望んだ。この中立宣言は条約の原文には入らなかったが、全ての占領軍が撤兵した1955年10月26日に、議会が宣言した。

結果

条約締結を受けて、連合国占領軍は1955年10月25日にオーストリアから撤退した。それ以降、10月26日は「国旗の日」としてオーストリアで祝われ、1965年以降は建国記念日になった。

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領土の喪失第一次世界大戦後も領有していた東プロイセンやシュレジエン、ドイツが回復した旧ドイツ帝国の領土であるダンツィヒやポーランド回廊など、オーデル・ナイセ線以東の広大な旧ドイツ東部領土を喪失した。また大戦直前に獲得したクライペダもソ連構成国リトアニア・ソビエト社会主義共和国に返還された。ミュンヘン協定は無効となり、ドイツ人居住地域のズデーテン地方はチェコスロバキアに返還された。大戦中から戦後にかけて東・中欧の喪失地域からドイツ人は追放され、大量のドイツ避難民がドイツ国内に移動する中で多くの死者が出た。この他、大戦中にドイツが併合した地域は、フランス・デンマーク・ベルギー・ルクセンブルクの諸国にそれぞれ返還された。西部のザールラントは自由州として分離され、フランスの管理下に置かれたが、その後、1957年に住民投票で西ドイツに復帰した。ナチス政権が併合したオーストリアはドイツの被占領地域から分離され、1955年のオーストリア国家条約でドイツとの合併は永久に禁止された。戦犯裁判と非ナチ化世界を戦争の渦に巻き込んだアドルフ・ヒトラーは敗戦直前に自殺。残虐行為を実行した親衛隊の長官ハインリヒ・ヒムラー、ナチス政権下の宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスも同じく自殺し、残されたヘルマン・ゲーリングなどナチス首脳部の一部は、連合軍による国際軍事裁判によって裁かれ、ゲーリング、リッベントロップ外相、ヴィルヘルム・カイテル元帥ら12名に絞首刑の判決が下された。また各占領地でも独自に裁判が行われ、特にニュルンベルク継続裁判等が著名である。占領地ではナチスの影響を排除する非ナチ化の政策が推し進められ、政軍の関係者以外でもマルティン・ハイデッガーやレニ・リーフェンシュタールといったナチ協力者も非ナチ化裁判の対象となり、活動を禁止された者も数多くいた。高官の国外逃亡と責任逃避
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