ベルヴェデーレ宮殿とは? わかりやすく解説

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ベルベデーレ‐きゅうでん【ベルベデーレ宮殿】

読み方:べるべでーれきゅうでん

《Schloß Belvedereオーストリア首都ウィーン中心部にある宮殿ハプスブルク家仕えた名将オイゲン夏の離宮として、ルーカスフォンヒルデブラント設計により、1714年から1723年にかけて建造された。現在、美術史美術館次いで同国第2の規模を誇る美術館になっている

ベルベデーレ宮殿の画像
撮影・Erik Cleves Kristensen http://os7.biz/u/9uox8
ベルベデーレ宮殿の画像
撮影・NH53 https://goo.gl/ztTc92
ベルベデーレ宮殿の画像
宮殿内噴水撮影・NH53 https://goo.gl/T7LuLI

ベルヴェデーレ宮殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 09:16 UTC 版)

座標: 北緯48度11分30秒 東経16度22分51秒 / 北緯48.19167度 東経16.38083度 / 48.19167; 16.38083

ベルヴェデーレ宮殿
地図

ベルヴェデーレ宮殿(ベルヴェデーレきゅうでん、独:Schloss Belvedere)とは、オーストリアウィーンにあるバロック建築宮殿。Belvedereは美しい眺めの意味。

概要

ベルヴェデーレ宮殿下宮

もともとハプスブルク家に仕えたプリンツ・オイゲンが、当時の代表的な建築家であるヨーハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント(Johann Lukas von Hildebrandt)に、夏の離宮として造らせたものである[1]1714から1716年にかけて下宮(Unteres Belvedere)、1720から1723年にかけて迎賓館である上宮(Oberes Belvedere)が建設された。

プリンツ・オイゲンの死後1752年に、ハプスブルク家マリア・テレジアに売却された。ナポレオン失脚後のウィーン会議の際には華やかな饗宴の場となった。第2次世界大戦後の1955年には、連合国との間でオーストリア国家条約が調印された。現在は美術館になっている。

広大な敷地の南側にある上宮は「オーストリア・ギャラリー」で、19世紀以降のオーストリア絵画を展示し、特に世紀末美術のコレクションが充実している。美術史美術館に次ぎ、オーストリアで2番目に大きな美術館である。上宮からウィーン市街を眺望できる。庭園をはさんで北側の下宮は「中世とバロック美術館」である。

オーストリアの20セントユーロ硬貨の裏面には、門越しに見た宮殿が彫られている。

また、上部宮殿の東側の脇にある平屋建ての建物は、元々は宮殿職員用の住居であったが、作曲家ブルックナーが晩年を過ごした邸宅として知られる。壁に記念碑があるが、内部は公開されていない。

上部宮殿側の入り口脇にはウィーン大学植物園がある。

脚注

  1. ^ 水野久美『いつかは行きたいヨーロッパの世界でいちばん美しいお城』大和書房、2014年、157頁。ISBN 978-4-479-30489-0 

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