カロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > カロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒの意味・解説 

カロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 06:20 UTC 版)

カロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ
Karoline Ferdinande von Österreich
カロリーネ大公女

出生 (1801-04-08) 1801年4月8日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーン
死去 (1832-05-22) 1832年5月22日(31歳没)
ザクセン王国ドレスデン
埋葬 ザクセン王国ドレスデン、カトリック宮廷教会
配偶者 ザクセン王子フリードリヒ・アウグスト
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 オーストリア皇帝フランツ2世(1世)
母親 マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン
宗教 キリスト教カトリック
テンプレートを表示

マリア・カロリーネ・フェルディナンデ・テレジア・ヨゼフィーネ・デメトリア・フォン・エスターライヒMaria Karoline Ferdinande Theresia Josephine Demetria von Österreich, 1801年4月8日 - 1832年5月22日)は、オーストリア皇帝家の一員、オーストリア大公女 (Erzherzogin von Österreich)神聖ローマ皇帝、のちオーストリア皇帝フランツ2世(1世)の娘で、ザクセンフリードリヒ・アウグスト2世の最初の妻。夫の即位以前に死去し、王妃にはなっていない。

生涯

フランツ2世皇帝とその2番目の妻でナポリ王フェルディナンド4世(後の両シチリアフェルディナンド1世)の娘であるマリア・テレジアの間の第8子、六女として生まれた。父にとっては7番目の娘である。1819年にザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世の甥で、子供のない伯父たちの死後に王位を継ぐことが確実視されていたフリードリヒ・アウグスト王子と結婚した。まず1819年9月26日にウィーンで代理結婚式を行い、同年10月7日にドレスデンで両人揃っての結婚式が行われた。

13年間の結婚生活で子供をもうけることはなく、1832年に没してドレスデンのカトリック宮廷教会に葬られた。夫はその後、バイエルン王女マリア・アンナと再婚したものの、後継ぎを得ることは出来なかった。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ」の関連用語

カロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのカロリーネ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS