議員生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 01:55 UTC 版)
「ジョージ・マクガヴァン」の記事における「議員生活」の解説
下院議員を2期4年務めたマクガヴァンは1960年の上院選に出馬するが、現職の共和党カール・アール・ムンドに52-48%の得票率の差で敗れる。しかし議員の職を離れたことにより、ジョン・F・ケネディ大統領から食糧平和プログラムの担当官として任命される(アメリカでは議員は政府職員を兼ねることができない)。1962年には再び上院選に出馬し当選。以降上院議員を3期務めた。 トンキン湾事件に関する軍事行動については賛成票を投じたマクガヴァンだが、次第にアメリカの軍事支出やベトナムへの軍事関与について批判を明言するようになり、同じ民主党の大統領リンドン・ジョンソンを批判した。 1968年の民主党大統領候補指名選挙でマクガヴァンはロバート・ケネディを支持した。ケネディは山場のカリフォルニア州予備選挙で勝利を収めたが、勝利演説を行った直後に暗殺された。マクガヴァンはケネディの代役として、シカゴで開かれた民主党大会で立候補をしたが、ヒューバート・ハンフリーに民主党の指名を奪われユージーン・マッカーシーへの支持にも及ばなかった。 一方、大会中に民主党の大統領候補指名方式に関する改革委員会を設けることが決定された。1969年にマクガヴァンはマッカーシーとケネディの元支持者たちの支持により改革委員長となった。改革委員会は大統領候補の指名過程における党幹部や関係者による影響力を大幅に削り、党員集会と予備選挙の役割を増大させ、代議員に一定割合の黒人、女性、若者の枠を設けることを義務付けた。この規約改正は結果的に1972年のマクガヴァン自身の指名に有利に働いた。
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