議員活動と逮捕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 08:15 UTC 版)
「フランシス・バーデット」の記事における「議員活動と逮捕」の解説
バーデットは、下院議会において公民権を擁護する立場を採り、ウィリアム・ピットの政敵として早くから注目を集めた。彼はフランスとの交戦を公然と非難し、当時中断されていた人身保護法を復活させるように求め、またジョン・ホーン・トゥックを議会から追放しようとする動きに抵抗した。国民はすぐに彼を支持した。バーデットはコールドバス・フィールズ刑務所の環境を調査しようと尽力したが、結果として政府の許可を得ることができなかったため、当刑務所のみならずイギリス国内にあるいずれの刑務所の訪問も実現しなかった。1797年にはトゥックと親交を深め、政治のみならず言語学の分野においても彼を師と仰ぐようになった。 1802年の総選挙において、バーデットはミドルセックス州から立候補した。しかしこの当選は1804年に無効とされ、続く選挙においてバーデットは敗れた。1805年、この無効は取り下げられたが、このように選挙結果が再度、それも短い期間に覆ったことで、バーデットは今後再び議員に立候補する意思のないことを宣言した。彼はこの一件に莫大な金をつぎ込んでいた。 1806年の総選挙で、バーデットはウェストミンスター市の改革派候補者であるジェームズ・パウルの筆頭支援者だった。しかし翌年、バーデットとパウルは誤解がもとで決闘する事態にまで至り、双方ともに傷を負うこととなる。翌年の1807年の総選挙において、バーデットは不本意ながらウェストミンスター区から自ら出馬することとなった。そして熱狂的な支持のもと、最多得票数でトップ当選を果たした。 政敵への批判と改革の推進という天職に、再び取り組むことになったバーデットだったが、1810年には下院議会との対立を深めた。下院は、急進派で知られるジョン・ゲイル・ジョーンズを収監した。バーデットは、このような手段を採る権限を下院が有している点を疑問視し、この手続の正当性を糾弾したのだ。バーデットはジョーンズを釈放するために尽力したが徒労に終わった。これを受けて、バーデットはウィリアム・コベットが発行したウィークリー・レジスターに掲載された、この件に関する自身の談話の改訂版を発行した。 改訂版におけるこの告発は下院を中傷していたため、下院はバーデットの行動が背任にあたるとし、議長はバーデットの逮捕令状を請求した。バーデットの弁護のため、2日間に渡り群衆が主不在の屋敷に詰めかけた。バーデットは権力に屈しなかった。バーデットの同僚であるトマス・コクランが助力を申し出たが、彼はこの市民的かつ政治的な出来事に軍事的戦略を用いるつもりであったため、バーデットはこれを辞退した。屋敷に入る直前、バーデットは兵士たちによってロンドン塔へ連行された。国会休会中に彼は釈放されたが、水路をウェストミンスターへと帰還したことで支援者たちを大いに落胆させた。これは、彼の名誉を表明する機会が失われたことを意味するためだった。その後、バーデットは下院議長および軍曹に対して法的措置をとったものの、裁判所は議会の行動を支持した。
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