法的措置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 23:10 UTC 版)
「ケント州立大学銃撃事件」の記事における「法的措置」の解説
1970年9月、写真から特定された学生24人と教員1人が、5月4日のデモやROTCビル火災に関わったとの容疑で起訴された。この起訴に反証できる法的資料を提供するためケント法律弁護基金(Kent Legal Defense Fund)が組織された。ROTCビル火災に関連して全5件の訴訟が裁判にかけられた。ある訴訟では非学生の被告人1名が有罪判決を受け、他にも非学生2名が有罪を認めた。他の被告人1名は無罪となり、最後の告訴は棄却された。1971年12月、残りの20人に対する告訴はいずれも証拠不十分として棄却された。 州兵8人が大陪審により起訴された。州兵は自衛で発砲したと主張しており、これは刑事司法制度によって一般に受け入れられた主張である。1974年、米国地方裁判所は、検察当局の起訴内容が裁判理由としては弱すぎるとの理由から、8人全員に対する公民権訴訟を棄却した。 州兵、オハイオ州、ケント州立大の学長に対する民事訴訟も行われ、11週間の審議を経て、全ての請求について被告3者全員に全会一致の裁定が下された。これらの判決は、連邦裁判所判事が反対の陪審員に対する法廷外の脅迫を誤って処理したという理由で、控訴裁判所で棄却された。差戻しの再審で、この民事訴訟はオハイオ州から原告全員に総額675,000ドルの支払いを代償に和解が成立した。被告が公表した合意内容では、起こってしまったことを後悔していると彼らは述べた。 その後数年にわたり、反戦運動の多くがこの銃撃事件を「殺人」だと言及したが、州兵に対する刑事上の有罪判決は得られなかった。 ケント州立大の事件は州兵に群衆統制の方法を再検討させた。当時、州兵がデモ隊を追い払うのに必要とされた装備は、薬莢を込めたM1ガーランドライフル、ポンプ式ショットガン、銃剣、CSガス催涙弾だけだった。その後数年で、アメリカ陸軍はデモ隊を追い払うため殺傷までには至らない手段(ゴム弾など)の開発に着手し、デモ隊の間で死傷者が出ないようにするべく群衆統制と暴動鎮静の戦術を変更した。ケント州立大の事件によって運用変更された群衆統制の多くは、1992年のロサンゼルス暴動や2005年のハリケーン・カトリーナの余波における市民混乱など、似たような状況に直面した際に米国の警察や軍隊によって現在使用されている[要出典]。 この事件の副産物の1つに「1970年5月4日の事件の生きた記念碑として」ケント州立大学に1971年に設立された平和的変革センター(Center for Peaceful Change)がある。現在では紛争適用管理センター(Center for Applied Conflict Management,CACM)として知られ、米国で最初期の学園紛争解決プログラムの1つを開発した。暴動抑止に特化した暴動調査抑止研究所(Institute for the Study and Prevention of Violence)は1998年に設立された。 FBIの報告書によると、科目等履修生のテリー・ノーマンは学園構内の警察とFBI支部の双方に密告しているとして学生デモ抗議者達から既に目を付けられていた。ノーマンは5月4日の抗議行動に参加して、学生側の指導者を特定するべく写真を撮影しており、 一方で護身銃を携行してガスマスクを着用していた。 1970年、FBI長官のジョン・エドガー・フーヴァーは当時の下院議員からの質問に答えてノーマンがFBIのために働いていたことを否定し、その声明にノーマンが異議を唱えた。1973年8月13日、ノーマンが最初の発砲をしたかもしれないと示唆するメモを、インディアナ州の上院議員が当時のオハイオ州知事に送付したが、それは抗議者達がいる付近からの銃声に焚きつけられて州兵が学生に発砲を始めたという、ある州兵から受け取った証言に基づくものだった。 銃撃が起こって以降、米国では長年にわたり1970年5月4日の事件に関する議論が続いている。 負傷者9人のうち、2人が既にこの世を去っている(2007年6月にジェームズ・ラッセル、2008年6月にロバート・スタンプス)。
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