下院議長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:07 UTC 版)
「ニュート・ギングリッチ」の記事における「下院議長」の解説
選挙後、1995年1月からの議会会期では、「アメリカとの契約」に基づいて矢継ぎ早に法案を提出、クリントン政権と激しい戦いを展開した。未成年の未婚の母に対する福祉を打ち切ってその子供を孤児院に収容することで国の福祉予算を減らせるという提案をしたことで、ヒラリー・クリントンなど一部から反発を招いた。また均衡財政を義務付ける憲法修正案や、大統領の項目別拒否権を可能にする法案を相次いで下院通過させたが、均衡財政憲法修正案は上院に、項目別拒否権はクリントン大統領も賛成はしたものの最高裁に違憲と判断される。 この議会ではさらに、クリントン政権と歳出削減の規模など予算案をめぐって激しく対立、クリントン側も民主党として初めてとなる均衡財政案(ギングリッチが下院で可決させた2002年までの均衡財政策に対し、福祉を維持しつつ2005年までに均衡させるとしたもの)を出すなど共和党側へ反撃を行った。こうした対立のため、新年度開始の1995年10月になっても予算案が可決できなかった。クリントン政権とギングリッチの共和党の対立は激しく、暫定予算通過が間に合わず、政府職員を一時帰休させたり政府機関を数週間閉鎖するなど、政府が11月と12月に二度機能停止(「政府閉鎖」)に追い込まれる事態となった。 ギングリッチはクリントン政権からの反撃を受け始めただけでなく、政府閉鎖を辞さない妥協のない態度が世論から批判されつつあった。11月の政府閉鎖の後には、「ラビン首相の葬儀から戻るエアフォースワンの中で、クリントン大統領に無視され話す機会すら与えられなかったため、より厳しい予算案を提出した」、とレポーターにほのめかし、人物の小ささが批判された。さらに糟糠の妻から現在の若い妻に乗り換えた話や、金銭スキャンダルも彼の人気を下げた。後日ホワイトハウスから、ギングリッチと大統領、ボブ・ドールがフライト中話をしている写真が公表され、ギングリッチのイメージダウンとなった。 クリントン政権の財政均衡案を結局共和党は呑み、以後財政均衡や福祉国家の効率化というギングリッチのテーマは完全に民主党側に奪われ、共和党は守勢に立たされた。共和党はビル・クリントン大統領の女性スキャンダル追及に命運をかけたが、その執拗さから却って有権者の批判を受け、1998年の中間選挙では共和党は議席を減らす。このためギングリッチは再選したばかりだったが、1999年議員を辞職し政界を退いた。ちなみに現在の夫人であるキャリスタとは当時不倫関係にあったことを2007年のインタビューで告白した。
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