2007年のインタビュー
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「ヴェリコ・カディイェヴィッチ」の記事における「2007年のインタビュー」の解説
2007年になるとカディイェヴィッチに関する報道と関心は再び高まった。後に誤りと判明したが、カディイェヴィッチがアメリカ・フロリダ州に生活しているという仮説が持ち上がったのである。2007年3月、クロアチアの新聞は「カディイェヴィッチはイラクで掩蔽壕の捜索を行なうアメリカ軍の特別顧問として働いており、また同時にドミトリー・ヤゾフ将軍の助けを得てモスクワに暮らしている」という一見して矛盾した報道を行った。 2007年3月26日、クロアチアのニュースポータルにカディイェヴィッチのインタビュー記事が掲載され、この中でカディイェヴィッチはイラクで連合軍の顧問として働いている事を認めたとされた。ただし、「彼は永遠にここで働くわけではない」と付け加えられ、また現在どこにいるのかなどの情報は含まれなかった。 2007年10月初旬、カディイェヴィッチは自著『Kontraudar: Moj pogled na raspad Jugoslavije』の宣伝を行うべくモスクワに現れた。その後、81歳になっていたカディイェヴィッチはセルビア及びクロアチアのメディアによるインタビューに応じた。2007年11月9日、セルビア国営放送のオリベラ・ヨヴィチェヴッィチ記者によるインタビューが行われ、これは2007年11月13日にゴールデンタイムの報道番組Upitnikにて放送された。また放送翌日の11月14日にはクロアチア国営放送のヨシップ・サリッチ記者によるインタビューが行われた。 それらのインタビューにて、カディイェヴィッチは2000年以降は難民としてロシアに暮らしていると述べた。いわゆるオヴチャラ虐殺事件については情報部長アレクサンダル・ヴァシリェヴィッチ(英語版)将軍から報告を受けておらず、事件を知ったのは退役後だったという。当時はユーゴスラビア人民軍こそがユーゴスラビアにおける唯一の公的な軍事組織であった以上、彼も人民軍も旧ユーゴスラビアにおける戦争犯罪に関与していると認めざるを得ないと語った。一方で彼と人民軍はユーゴスラビアを守るべく、様々な新興不正規軍事組織の発生を阻止するべく活動したのだとも述べている。またICTYは裁判所ではなく政治機関であるとして、その裁判を認めないと主張した。 さらに彼や軍部はユーゴスラビアの危機を解決する手段として軍事的反乱を予定した事もないとした。この主張は、「カディイェヴィッチと軍が反乱を提案したものの4日後に撤回させた」というボリサヴ・ヨヴィッチ大統領の証言と正反対のものである。これを指摘すると、カディイェヴィッチはヨヴィッチが嘘を付いているのだと断言した。カディイェヴィッチの主張によれば、ベオグラードにて行われた抗議行動の2日後の会議にて、ミロシェヴィッチからクーデター計画を持ちかけられたのだという。これに対してカディイェヴィッチは自分個人がそのような決断を下すことは出来ないので、陸軍高官らとの会議を行った後に結論をヨヴィッチへ報告すると答えた。その後、カディイェヴィッチはヨヴィッチに反対に決定した旨を報告したという。
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