下院議員職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:51 UTC 版)
「アイザック・ニュートン」の記事における「下院議員職」の解説
『自然哲学の数学的諸原理』を刊行(1687年)してまもなくのこと、王位に就いたジェームズ2世がケンブリッジ大学に対して干渉してくるという出来事があったが、その際に行われた1686年の法廷審理に大学側の全権代表グループの一員として参加し、毅然と干渉をはねのける発言をした。2年後の1688年には、庶民院議員(下院議員)に大学より選出された。しかし議会で議員としての唯一の発言は「議長、窓を閉めてください」だったという。 ニュートンは大著の執筆のあとで疲れており(『自然哲学の数学的諸原理』の執筆から刊行にいたるまでに、ロバート・フックと先取権をめぐり確執も生じ、初代グリニッジ天文台長のジョン・フラムスティードとも感情的ないざこざがあった)、大学での学究的生活にうんざりしていたとされ、上記のような政治的なことへの関わりが、大学から離れた実務的な世界で地位を得たいという欲望に火をつけた。そこで、教え子で19歳年下ながら社交性に富み、立ち回りがうまく、すでに中央政界で人脈を持っていたチャールズ・モンタギューに対して政治関連のポストを世話してくれるように依頼した。さらに、有名な哲学者ジョン・ロックとも知遇も得ていたため彼にもポストの紹介を依頼したが、すぐに色良い返事がもらえたわけではなかった。 精神的に疲れていたうえに、あてが外れた形になったニュートンはやがて精神状態に変調をきたすようになった。回復するのに時間を要し、不眠や食欲減退も引き起こし、被害妄想にも悩まされた。福島章は統合失調症説を展開している。ジョン・ロックへの書簡の中には、「(教え子の)チャールズ・モンタギューは私を欺くようになった」といった内容を書いたものが残っている。2年ほど自宅に引きこもるような状態になったとも言われる[誰によって?]。これを“錯乱”と表現する人もいるが、うつ病程度ではなかったかという指摘、最愛の母が死去するに至ったことの影響もあったとの指摘もある(母は1697年6月に死去した)。好んで行っていたものの一つで、錬金術においてしばしば重金属を味見するという行為があったために一時的な精神不調に陥った可能性も示唆されている[誰によって?]。この壮年期におけるスランプにおいても頭脳は明晰かつ学問を楽しんでおり、ヨーロッパ中に難解かつ興味を惹くような数学の問題を新聞に出題していたヨハン・ベルヌーイの「鉛直面上に2つの点があるとする。ひとつの物体が上の点から下の点まで重力のみで落下する時に要する時間をもっとも短くするには、どのような道筋に沿って降下させればよいか?」という最速降下曲線と呼ばれる問題を1696年に出題、翌年1月夕方ニュートンの下に掲載誌が到着、出題に目を通したニュートンは今日変分法と呼ばれる新しい数学の分野を一夜で組み立て、翌朝の出勤前までに解答し終え、匿名でベルヌーイに投稿した。
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