現役への復帰と政界進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 08:13 UTC 版)
「ロバート・キングスミル」の記事における「現役への復帰と政界進出」の解説
1778年、アメリカ独立戦争でフランスとの交戦となり、ブライス改めキングスミルは海軍に戻った。ヴィジラントの指揮を任され、1778年のウェサン島の海戦では、オーガスタス・ケッペル提督の艦隊の一員となった 。この勝敗ははっきりせず、戦後、キングスミルを含む士官の指揮を巡って議論と陰謀がうずまき、キングスミル自身にもはね返って来た。西インド諸島での任務を託されたが、指揮官を辞することでそれを断った。 キングスミルは、この退役を利用して政界入りをした。庶民院(英語版)(グレートブリテン王国時代)にワイト島のヤーマス選挙区から出馬したが、議員生活はわずか1年だった。彼の道楽半分な議員生活のため、高い地位の人々の多くが敵にまわり、乗るべき艦のないまま就役を待機し、その後74門3等艦のエリザベスに乗った。リチャード・ハウ提督のジブラルタル救援に参戦するには時間がなく、その代わりにインドへ出港予定の援軍輸送の任務を引き受け、74門のグラフトン、64門のユーロパ、32門のイフィゲニア(英語版)を連れて援軍を輸送した。1783年の1月17日に出港したが、ビスケー湾を航海している途中に激しい強風に遭い、かなりの損失を被って、スピットヘッドまで戻らざるを得なかった。船を修理に出す前に、キングスミルはパリ条約が署名され、戦争が終わったことを知った。もはやインドまでの援軍は必要なかった。しかしエリザベスは引き続き護衛艦として就役し、キングスミルはこの艦の指揮官として3年間配属された。 議員生活再開の機会を得たキングスミルは、トレゴニーの選挙区から立ち、1790年まで議員をつとめた。議会で発言することはなかったようだが、記録によれば、1785年の改正法案でウィリアム・ピットに一票を投じている。しかしキングスミルは1788年から1789年の摂政危機の間、ピットと反目し、リッチモンド公爵チャールズ・レノックスの1786年の砦強化計画にも反対していた。1790年のヌートゥカ危機(英語版)でキングスミルの議員生活は終わりをつげた、90門艦デューク(英語版)の指揮官として現役に復帰したからだった 。外洋に出る前に危機は過ぎ去り、キングスミルはデュークを退役させ、再び準引退生活に入った。1790年の10月、彼は軍法会議の裁判員の一人としてバウンティ号の反乱事件に関与することとなった。
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