ヴェルフ朝時代
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バイエルンを拝領したヴェルフ4世(バイエルン公としてはヴェルフ1世、1101年没)はヴェルフ家出身である。しかしながら、ヴェルフ4世は皇帝からバイエルンの地を拝領したにも係わらず、ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世が争った際には教皇側に加勢している。1077年にはハインリヒ4世のバイエルンへの支配権を削がせることを理由に対立王ルドルフ・フォン・ラインフェルデンの選出を支持している。 グレゴリウス7世没後の1089年にヴェルフ4世は自身の7番目の息子であるヴェルフ5世を43年間に渡って教皇派を指導したトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサと結婚させた。しかし、1095年にヴェルフ5世はマティルデと離婚し、ヴェルフ4世自身もハインリヒ4世と和解してバイエルンを返還してもらった。1101年にヴェルフ4世が死ぬとバイエルンは息子のヴェルフ5世(バイエルン公としてはヴェルフ2世、1120年死去)とハインリヒ9世黒公(1126年没)によって継承された。特にハインリヒ9世がザクセン公マグヌスの娘かつ相続人であるヴルフヒルデ(英語版)と結婚したことによりザクセン公国を相続する権利を得たのと同然の形でその大部分の領地を手に入れた。しかしマグヌスが死ぬとローマ皇帝ハインリヒ5世は継承法を無視する形で新ザクセン公にロタール・フォン・ズップリングを指名した。 ハインリヒ5世が死ぬとハインリヒ9世は当初は帝位請求者であるシュヴァーベン大公フリードリヒ2世を支持した。しかし直にロタールは自分の一人娘ゲルトルートとハインリヒ9世の息子ハインリヒ10世尊大公とを結婚させることで話し合いをつけた。これによりロタールは新国王ロタール3世として選出された。 1126年にハインリヒ9世は息子のハインリヒ10世に公位を譲って退位してまもなく死去した。新たに公位についたハインリヒ10世は、ロタール3世がホーエンシュタウフェン家出身のシュヴァーベン公フリードリヒ2世、コンラート(1127年に自らローマ王であることを宣言)兄弟と争った際には皇帝側に忠実に従った。1136年にロタール3世はハインリヒ10世に報償としてトスカーナ辺境伯の称号を授け、さらに死ぬ間際の1137年にザクセンの統治権を譲った。 ロタール3世が死亡時のハインリヒ10世はドイツで最も強大な諸侯の一人となり、有力な帝位請求者となっていた。しかし、帝位はハインリヒ10世のもとには転ばず、かつての対立王であったコンラートが、コンラート3世が選出された。そのコンラート3世は1138年にハインリヒ10世からバイエルン・ザクセン両公国を没収し、バイエルンをバーベンベルク家出身のオーストリア辺境伯レオポルト4世に譲った。ハインリヒ10世は己の領地奪還を目指す戦いを開始したものの1139年に幼いハインリヒ獅子公を残して没した。 現在のバイエルンの領域と以前にそこに属していた東方辺境伯領を統一したレオポルトはハインリヒ10世の兄弟であるヴェルフ6世(ドイツ語版)率いるヴェルフ一党との戦いを開始した。1141年にレオポルトは完敗してまもなく死去して弟のハインリヒ11世宣誓公が後を継いだ。ハインリヒ11世はヴェルフ一党の反乱の鎮圧に成功したものの1156年に新皇帝フリードリヒ1世赤髭王はハインリヒ獅子公にバイエルンを与え(バイエルン公としてはハインリヒ1世)、加えて1142年にはザクセンをも授けた(ザクセン公としてはハインリヒ3世)。その一方でレオポルトに対しては代償としてオーストリア辺境伯領(ドイツ語版)を公国に昇格させた。 スラヴ人への地へ遠征をすることでハインリヒ11世獅子公は自領を著しく拡大させることに成功させ強大な権力を得てフリードリヒ1世に対して戦いを挑んだ。ハインリヒ11世がフリードリヒ1世のイタリア遠征への参加を拒否するやフリードリヒ1世は1180年にハインリヒ11世に対する裁判を行った。その結果、ハインリヒ11世の領地の大半が没収されてフリードリヒ1世についた者達に分配されることとなった。バイエルンはヴィッテルスバッハ家のバイエルン宮中伯オットー4世が獲得してバイエルン公オットー1世となった。
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