ザクセン公として
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「ベルンハルト3世 (ザクセン公)」の記事における「ザクセン公として」の解説
ノルトアルビンギエン(ドイツ語版)(ザクセン領の一部)およびエルベ川とバルト海に挟まれた地域において、領主らがベルンハルトに対し反乱を起こした。ベルンハルトが戻った後、この反乱にハインリヒ獅子公が加担していたことが明らかとなった。ベルンハルトは自らの主張を通そうとし、ブランデンブルク辺境伯オットー1世やブレーメン大司教ジークフリートなどの兄の助けを借りた。まず最初に、アルテンブルクの臣下が忠誠を誓い、その後、ラッツェブルク、ダンネベルク、ルッコーおよびシュヴェーリンの伯らが忠誠を誓った。しかし最も強大なホルシュタイン伯アドルフ3世はベルンハルトに従わず、敵対するようになった。兄ブレーメン大司教ジークフリートはホルシュタイン伯の支配下からディットマールシェン(ホルシュタイン西部)を奪おうと、ブレーメンの封土としてベルンハルトに与えたものの、紛争が勃発し、ベルンハルトは敗北した。 ベルンハルトはエルベ川右岸に拠点をつくるため、エルベ川下流にラウエンブルク城の建設を命じた。ベルンハルトは停滞する地域には高い税金を課したが、これがラウエンブルク城の攻撃の引き金となり、1182年にラウエンブルク城は破壊された。 1183年、兄ヴェーベン伯ディートリヒが嗣子なく死去し、その領土の大半がベルンハルトのものとなった。 ベルンハルトはスラヴの地においても紛争を抱えていた。メクレンブルク侯プリビスラフの息子ハインリヒ・ボルヴィン1世はハインリヒ獅子公の娘マティルデと結婚し、父親同様に獅子公を支持しており、ベルンハルトと対立していた。一方、1164年にハインリヒ獅子公が襲撃したマルヒョー城において絞首刑にしたヴェルティスラフの息子ニコラウス1世はベルンハルト側についた(ハインリヒ・ボルヴィン1世とニコラウス1世とは従兄弟同士)。ベルンハルトの同盟者の力をそぐため、反乱を起こした家臣らはスラヴの地に侵攻し、ニコラウスを追い出した。ボルヴィンはポンメルン公ボギスラフ1世と同盟を結び、一方ニコラウスはデンマークの忠実な家臣であったリューゲン公ヤロミール1世と同盟を結んだ。ボギスラフは臣下の礼を取ることを拒否したデンマーク王クヌーズ6世を罰するという皇帝からの密命を受けており、これにより、エルベ川とオーデル川に挟まれた領域の領主はデンマーク派とドイツ派に分裂した。ボルヴィンはデンマーク王に捕らえられ、デンマーク王に臣下の誓いをせねばならなくなった。1184年および1185年にポンメルンはデンマークからの攻撃を受けて荒廃し、ボギスラフも同じ運命をたどった。 デンマーク側の勝利により、皇帝は1184年にベルンハルトと家臣との間の和解をすすめた。ホルシュタイン伯アドルフ3世はこの紛争を継続するかに思われたが、ベルンハルトに700マルクを支払った上、拒否していた臣下の礼を行った。また、ラッツェブルク伯ベルンハルトおよびシュヴェーリン伯グンツェリンも支払いの義務を負うこととなった。破壊されたラウエンブルク城は皆で再建することとなった。遅くとも1188年のハインリヒ獅子公の再追放のころには、アドルフは失った領地の回復のためベルンハルトに従っていた。しかし1189年にハインリヒ獅子公が戻った時、対立が再び勃発し、ベルンハルトはリューネブルクのバルドヴィックを失った。 ザクセン公として、ベルンハルトは1190年のハインリヒ6世の国王選挙に参加し、戴冠式に初めて国家元帥(Erzmarschall)として出席した。後に、ベルンハルトはハインリヒ6世がドイツ王位をシュタウフェン家の世襲としようとする計画に反対した。1198年の二重選挙では、ベルンハルトはフィリップを国王に選出したが、1208年にフィリップが暗殺された後には、フィリップの対立王であったオットー4世支持に変わった。 ベルンハルトはザクセンの紋章を初めて使用した。もともとのアスカニア家の紋章である金の地の盾に5本の黒い横縞に、その上に斜めに百合の帯をアスカニア家の支流の印として置いた。ベルンハルトは1180年のゲルンハウゼン帝国会議において、皇帝フリードリヒ1世からダイヤモンドの冠を与えられた。ザクセン公領を手に入れたため、ベルンハルトはヴィッテンベルクに拠点を移し、1422年にヴィッテンベルク系アスカニア家が断絶するまで、ヴィッテンベルクはアスカニア家の拠点であった。また、ベルンハルトはヴィッテンベルク貨幣の鋳造も行い、そこではブラクテアト(英語版)およびデナールの両方が鋳造された。ベルンハルトはアルブレヒト熊公の子としては最も遅い1212年2月9日に死去し、バレンシュテットのベネディスト会修道院に埋葬された。ベルンハルトの死後、その領地は2人の息子の間で分割され、アルブレヒト1世がザクセン公領を、アンハルト侯となったハインリヒ1世がアスカニア家の家領をそれぞれ相続した。
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