ザクセン城館の略奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:50 UTC 版)
「カール・テオフィル・ギシャール」の記事における「ザクセン城館の略奪」の解説
60年10月、ロシア・オーストリア連合軍(ザクセン兵を含む)は防衛軍を撃破したのちベルリン一帯を占領した。彼らは大王軍が救援のために接近すると戦闘を回避して撤退したのでベルリンが占領された期間は短かったが、大王が大切にしていたシャルロッテンブルク宮殿(ザクセン兵が侵入した)を筆頭に多数の城館屋敷が敵兵によって略奪された。大王はこれに怒って報復を決意し、翌61年の戦役開始前にザクセン選帝侯の狩猟館であったフベルトゥスブルク城を略奪した。 冬営中の61年1月、ライプツィヒに宿営していた大王は陣中の指揮官たちの中から一人選び、分け前を実施者に与えるので城の調度品や装飾品をはぎ取って処分し軍病院のための財源とせよ、と言って略奪を命じようとした。しかし名誉を重んじる貴族たる彼らは大王の命令を拒否した。ザルデーン少将は「陛下、どうぞ私に、敵とその砲陣を攻撃せよとお命じになって下さい。私は喜んで直ちに従います。しかし名誉や、宣誓、義務に反することは、私には出来ません」と言って命令を峻拒し、マルヴィッツ中佐も同様に拒否した。抗命した以上2人は軍に残ることは出来ず、直ちに職を辞した。 貴族将校の予期せぬ抗命に直面した後、大王はギシャールを呼んで、フベルトゥスブルク城を略奪せよと命じた。ギシャールは命令に従い、城を略奪した。ギシャールとその兵はフベルトゥスブルク城に赴くと、城内の調度品と城外の装飾品とを問わず、およそ換金出来そうなものは全て取り去った。作業には2時間以上を要さず、ギシャールの兵は屋根の銅板を剥がし、絵画の額縁や壁の羽目板を外しては金メッキを削り落して溶解のために集め、城の塔に付属していた時計や鐘をも持ち去ったとされる。 ギシャールはこの略奪によって病院会計に10万ターラーを献上したが、彼自身も6~7万ターラーを利得した。このときユダヤ人金融業者で大王の資金調達役を務めるエフライムやイツィヒも同様にいくらかを利得した。ギシャールはこの略奪によって財産を得たが、同時に不名誉な人物という評判を戦後も死ぬまで背負うことになった。 このエピソードはしばしば、ザクセン宰相ブリュールが所有したいくつかの城館の略奪と混同される。ブリュールはザクセンの反プロイセン外交を主導した人物で、このため大王の強い敵意を受け、その所領財産は没収されて軍資金の足しにされた。しかし、ブリュールの城館の略奪が行われたのは57年~58年で、ギシャールは関わっていない。フベルトゥスブルク城が略奪されたのは61年のことである。
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