ザクセン宮廷指揮者とは? わかりやすく解説

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ザクセン宮廷指揮者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/17 05:34 UTC 版)

リヒャルト・ワーグナー」の記事における「ザクセン宮廷指揮者」の解説

ドレスデンでの1842年10月20日の『リエンツィ初演大成功終わり、これによってワーグナーはようやく注目された。『リエンツィ』は流行マイアベーア様式踏襲しており、ビューローは「『リエンツィ』はマイアベーア最高傑作」と呼んだ。この成功によってザクセン王国宮廷楽団ザクセン国立歌劇場管弦楽団(ドレスデン・シュターツカペレ)指揮者の職を打診され、翌年1843年2月任命された。1月に『さまよえるオランダ人』が上演されたが、これは『リエンツィ』と違ってそれほど評判得られなかった。 1843年の「自伝スケッチ」でワーグナーは、イタリア人は「無節操」で、フランス人は「軽佻浮薄」であり、真面目で誠実なドイツ人対比させたが、こうした評価にはパリでの不遇背景にあった1844年にはイギリス1826年客死したウェーバー遺骨ドレスデンへ移葬する式典演出担当したウェーバー尊敬していたワーグナー葬送行進曲ウェーバー讃える合唱曲作詞作曲し、さらに追悼演説行って多才発揮した当時ワーグナードレスデン宮廷歌劇場監督社会主義者のアウグスト・レッケルの影響で、プルードンフォイエルバッハバクーニンなどアナーキズム社会主義感化されており、国家廃棄して自由協同社会アソシエーション)を望んでいた。 1845年には『タンホイザー』を作曲し上演したが、当初不評だった。しかし上演し続けるうちに評価上昇していき、ドレスデンかぎらず各地上演されるようになった夏休暇にはヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』 、ゲオルク・ゴトフリート・ゲルヴィーヌスの『ドイツ人詩的国民文学歴史』 を読んだ1846年ワーグナー毎年恒例であった復活祭直前日曜日おこなわれる特別演奏会演目として、ベートーベンの『第九』の演奏計画当時第九』は演奏されることも少なく忘れられた曲となっていたため猛反対の声が上がったが、徹底したリハーサル準備甲斐あってこの演奏大成功終わった以後、『第九』は名曲としての評価確立する1848年に『ローエングリン』を作曲したが、この時は上演されなかった。 ワーグナー1846年ザクセン王立楽団の労働条件改善や団員の増強合理的な編成要求したが、総監督リュッティヒャウ男爵はすべて却下した。さらに翌1847年ワーグナー宮廷演劇顧問カール・グツコー無理解専制上訴したが、取り合ってもらえなかったため、辞任した1847年夏、ワーグナーヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』に触発され古代ゲルマン神話研究した

※この「ザクセン宮廷指揮者」の解説は、「リヒャルト・ワーグナー」の解説の一部です。
「ザクセン宮廷指揮者」を含む「リヒャルト・ワーグナー」の記事については、「リヒャルト・ワーグナー」の概要を参照ください。

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