世俗諸侯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 02:09 UTC 版)
ボヘミア(ベーメン)王 献酌侍従長。 ボヘミア王自身国王選挙によって選出される王であったが、1526年にフェルディナント1世が王となり、1544年に世襲の王国とした。このため、以降は三十年戦争およびオーストリア継承戦争の期間を除いてハプスブルク家に保有され、1806年の帝国消滅を迎えた。 ライン宮中伯(ライン・プファルツ伯)→バイエルン公 シュヴァーベン地方及びライン川沿岸地域における国王代理。大膳職長官。 1648年にヴェストファーレン条約で遠縁のバイエルン公に選帝侯位が移動。以降、スペイン継承戦争の一時期を除いて1806年の帝国消滅までバイエルン公が保持した。ライン宮中伯位は1214年、バイエルン公位は1180年から、ヴィッテルスバッハ家が世襲。1329年から1777年まではバイエルン系とプファルツ系に分裂。 ザクセン公(ザクセン=ヴィッテンベルク公) ザクセン法地域における国王代理。侍従武官長。 1180年からアスカーニエン家が領地とした。アルブレヒト1世の死後、ヴィッテンベルクとラウエンブルクに分裂し、それぞれがザクセン公としてローマ王を擁立した。カール4世の金印勅書ではザクセン=ヴィッテンベルク公に選帝侯の資格が与えられた。アスカーニエン家断絶後はマイセン辺境伯兼テューリンゲン方伯であったヴェッティン家にザクセン選帝侯位が与えられた。1697年から1763年までポーランド王を兼ねた。 ブランデンブルク辺境伯 式部長官。 1356年時点ではバイエルンと同君連合。その後カール4世の買収により1373年からルクセンブルク家が保有。1415年にニュルンベルク城伯フリードリヒ6世に譲渡されてからはホーエンツォレルン家が世襲。1618年よりプロイセン公国と同君連合、1701年にプロイセン公は王に昇格した。
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